世界史からみる美術、最初のテーマとして「ウィーン分離派」をとりあげる。

第1回では分離派が登場した19世紀のウィーンの政治的動向について概観した。

第2回では、第1回で示したオーストリア=ハンガリー帝国のコスモポリタン主義がウィーンの都市開発にどのように反映されたかをまとめた。

第3回では、ウィーン再開発の過程で設立されたオーストリア芸術産業博物館とウィーン工芸学校を中心に、19世紀末にウィーンで行われた美術教育について見ていく。

オーストリア応用美術館とオーストリア工芸学校。手前の大通りがリングシュトラーセ
オーストリア応用美術館とオーストリア工芸学校。手前の大通りがリングシュトラーセ

オーストリア芸術産業博物館(k. k. Österreichisches Museum für Kunst und Industrie:現 オーストリア応用美術館MAK、以下「芸術産業博物館」と略)と、その附属機関の工芸学校(Kunstgewerbeschule)はウィーンの都市再開発の一環として1863年に設立されたものである。これらの創設と運営において、初代校長となったルドルフ・アイテルベルガー(Rudolf Eitelberger von Edelberg, 1817 - 1885)の存在は大きい。1852年にウィーン大学美術史講座の初代教授となったアイテルベルガーは、対象とその歴史を融合した鑑賞を重視するウィーン美術史学派の創設者と称されている。当時の代表的な歴史主義者であり、美術史学と考古学の区分が曖昧だった19世紀のウィーンにおいて、美術を消費する上流階級の趣味と伝統との断絶、ならびにオーストリアの芸術産業の行き遅れを非常に危惧していた。西田兼の指摘によれば、大学というアカデミズムの頂点にいたにもかかわらず、すでに価値評価の定まった芸術だけでなく、現在進行形の芸術にも積極的に関わろうとしていた人物であった。多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国の統合と発展を国内外に発信し、投資を促す装置として万国博覧会の開催を検討したオーストリア政府は、万国博覧会美術部門の視察官としてアイテルベルガーを 1862 年にロンドンへ派遣する。アイテルベルガーは英国における美術教育の振興策と博物館の活用法を高く評価し、ロンドンのサウス・ケンジントン博物館(現在のヴィクトリア&アルバート博物館)にならって、芸術産業博物館の設立を進めていくこととなる。この博物館設置の目的は、美的にも技術的にも優れた多くの時代・文化圏の作品を収集して公開し、手工業の職人や経営者がより良い製品を製造できるよう教育するとともに、さらにはそれらを享受するウィーンの上流階級の趣味を向上させることにあった。そして博物館の収集品を教材として利用する附属の工芸学校を開設し、画家や彫刻家の養成を目指した。

オーストリア応用美術館内装。古典主義的なアーチと中世らしさのあるヴォールト、世紀末の装飾が融合している。
オーストリア応用美術館内装。古典主義的なアーチと中世らしさのあるヴォールト、世紀末の装飾が融合している。

芸術産業博物館の設置目的にはオーストリア=ハンガリー帝国という生まれて間もない国家の芸術文化の正しき道を示そうとするアイテルベルガーの理念が強く現れている。アイテルベルガーは、オーストリアの芸術が他の産業と同様に、技術的にも精神的にもフランス・ドイツ・イギリスといったライバル国家に圧倒されていることを危惧していた。その原因は、オーストリア=ハンガリー帝国が多民族多言語国家であるがゆえに1つの美術史を共有できず、また美術教育を施せなかったことにあると考えた。それゆえ国内のほとんどの工場労働者が様式的に正しいスケッチを描けず、様式に即して素描を読み取る能力がないため技術や趣味を継承できない悲惨な状況にあると考えていた。 アイテルベルガーはオーストリア芸術産業の改革のために、単なる職人ではなくある種の教育者として芸術的な手工芸デザイン・産業デザインに影響を与えられるような芸術家を育成する教育機関としてウィーン工芸学校を設立したのである。特にオーストリアの国際的地位が高かったバロック期の美術や、ドイツ・フランスからの影響が少なく手本として立ち返るべきと考えられたイタリアルネサンス、そして多民族帝国の原点ともいえるギリシア・ローマの古典古代美術やオスマン旧領であった東欧美術との共通祖先ともいえるビザンツ・イスラム・オリエントの古代美術の収集品が積極的に教材として用いられた。ウィーン工芸学校で目指されたのは美術史をもとにした芸術と産業の融合であり、ここで教育を受けた世代にとっては、大きな美術史の流れの中での現代美術として、純粋芸術と応用芸術の合致は最初から当然のことだったのだ。

次回はいよいよ最終回である。ウィーン工芸学校で教育を受けた学生たちが「ウィーン分離派」となり、純粋芸術と応用芸術を合致させた総合芸術を目指していく過程を論じ、ウィーン分離派とは何だったかを締めくくりたい。

ヘッダー画像:オーストリア応用美術館とオーストリア工芸学校。手前の大通りがリングシュトラーセ(公式HPより)

画像引用元:https://www.mak.at/en/tourism_jp

【参考文献】

天貝義教「ウィーンのオーストリア応用美術博物館」、池田祐子編『ウィーン──総合芸術に宿る夢〈西洋近代の都市と芸術4〉』、竹林社、2016年

池田祐子「ウィーン工房──『ウィーン』ブランド創出とその展開──」、池田祐子編『ウィーン──総合芸術に宿る夢〈西洋近代の都市と芸術 4〉』、竹林社、2016 年、276-304頁

池田祐子「序 総合芸術に宿る夢──芸術作品としてのウィーン、そしてオーストリア」、池田祐子編『ウィーン──総合芸術に宿る夢〈西洋近代の都市と芸術 4〉』、竹林社、2016 年、7-28頁

池田祐子「世紀末ウィーンのグラフィック──デザインそして生活の刷新にむけて」 、 池田祐子/本橋仁/牧口千夏編『世紀末ウィーンのグラフィック デザインそして生活の刷新にむけて』展覧会カタログ、京都国立近代美術館、2019 年、10-23頁

海老澤模奈人「リンクシュトラーセの整備と歴史主義建築群」、池田祐子編『ウィーン──総合芸術に宿る夢〈西洋近代の都市と芸術 4〉』、竹林社、2016 年、31-58頁

海野弘『ハプスブルグ美の帝国;バロックから世紀末へ』、集英社、1998年

角山朋子『ウィーン工房──帝都のブランド誕生にみるオーストリア近代デザイン運動史』、彩流社、2021年

新藤淳「閉ざされた円環の重力─グスタフ・クリムトの総合芸術作品をめぐって─」、池田祐子編『ウィーン──総合芸術に宿る夢〈西洋近代の都市と芸術 4〉』、竹林社、2016年、349〜378頁

千足伸行『クリムト作品集』、東京美術、2013年

西川智之「芸術により飾られて;分離派結成までのウィーンの芸術運動」、名古屋大学大学院国際言語文化研究科『言語文化論集』第29巻第2号、2008年、187-203頁

西川智之「機関誌『Ver Sacrum』とウィーン分離派を巡る言説」、池田祐子編『ウィーン──総合芸術に宿る夢〈西洋近代の都市と芸術 4〉』、竹林社、2016 年、253-275 頁

西田兼「クリムトとクノップフ」、島根大学言語文化学科編『島根大学法文学部紀要』第24号、島根大学法文学部、2008年

西田兼「ウィーン学派と近代美術」、池田祐子編『ウィーン──総合芸術に宿る夢〈西洋近代の都市と芸術 4〉』、竹林社、2016 年、127-151 頁

西田兼「ウィーン美術史美術館階段ホールの壁面装飾──クリムトの《古代エジプト》と《古代ギリシア》を中心に──」、島根大学言語文化学科編『島根大学法文学部紀要』第49号、島根大学法文学部、2020年

C. M.ネーベハイ『クリムト』野村太郎訳、美術公論社、1985年

ハンス・H・ホーフシュテッター『ユーゲントシュティール絵画史』種村季弘/池田香代子訳、河井出書房新社、1990年

古川俊英「象徴主義絵画における「宿命の女」をめぐって :ラファエル前派,モロー,クノップフ」、北海道教育大学編『北海道教育大学紀要』第43巻、北海道教育大学、1993年

フランク・ウィットフォード『クリムト』関根秀一/吉岡昌紀/片切頼嗣/越智博美訳、洋版出版、1993年