世界史からみる美術、最初のテーマとして「ウィーン分離派」をとりあげる。

「ウィーン分離派」とは、文字通りウィーンで活動する芸術家を中心としたグループである。今までの美術からの「分離」を掲げて彼らの芸術運動は展開した。しかし一体、何から分離し、何をめざしたのだろうか。

「ウィーン分離派」の「分離」の正体を歴史的に考察するために、第1回では分離派が登場した19世紀のウィーンの政治的動向について概観する。

   *

19世紀初頭にナポレオンが神聖ローマ帝国を解体すると、ハプスブルグ家の領土はオーストリア帝国となる。1815年に成立したウィーン体制によってオーストリア帝国は命脈を保っていたが、1848年革命の暴動や諸民族の自立の動きにより帝国は不安定な状態であった。そして、1853年に不凍港の獲得をめざすロシア帝国はオスマン帝国との間に戦端を開く(クリミア戦争)。これに対し、オーストリアはバルカン半島におけるロシアの影響力増大を恐れ、オスマン帝国を支持した。このため、ウィーン体制の成立以来友好を保っていたロシアとの関係が悪化した。これはウィーン体制の完全な崩壊を意味し、ロシアの後押しを失ったオーストリアは、ドイツ連邦内における地位を低下させた。

1859年にはイタリア統一をもくろむサルデーニャ王国との戦争に敗北し、オーストリアはロンバルディアを失った。1866年にもプロイセン王国の挑発に乗って普墺戦争を起こし、大敗を喫した。その結果、オーストリアを除外したプロイセンを中心とする小ドイツ主義に基づいた統一ドイツ帝国が誕生することとなった。オーストリアは、自らを盟主とするドイツ連邦が消滅してその威光を失い、ハプスブルグ家は、神聖ローマ皇帝位の世襲に成功して以来保ち続けていたドイツ民族のリーダーとしての地位を、完全に失ったのである。オーストリアの相次ぐ対外戦争の敗北は軍事的な国威発揚の限界を示すとともに、民族主義に基づく国家統一の風潮が高まるなかで、複合民族国家であるオーストリア帝国の存在意義を厳しく揺さぶるものであった。

ここにおいてオーストリアは、ハプスブルグ家を中心とするオーストリア人、ドイツ民族至上主義的な排他的ナショナリズムを掲げることが不可能となった。むしろ、多民族共生・多文化共存の方針を打ち出さざるを得ない状況となったのである。ドイツから締め出されたかたちとなったオーストリアは、1867年のアウスグライヒ(妥協, Österreichisch-Ungarischer Ausgleich)によって、やむなく帝国内人口の約20パーセントを占めるマジャール人の自治を認めた。君主である「オーストリア皇帝」兼「ハンガリー国王」であるフランツ・ヨーゼフ1世のもと、軍事・外交および財政のみを共有し、その他はオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政治を行うという形態の連合国家が成立した。これがオーストリア=ハンガリー帝国である。

1913年のオーストリア=ハンガリー帝国の領域

オーストリア=ハンガリー帝国はその憲法で「民族平等」を謳い、諸民族の連邦国家として産業を育成し、ドイツ帝国とロシア帝国という2つの大国の間で19世紀を生き残る必要があった。必然的に、首都ウィーンには帝国各地の諸民族が流入し、従来の市域ではすべての人口を抱えきれなくなっていく。こうした需要から、オーストリア帝国末期の1850年代から20世紀初頭にかけてウィーンの再開発が国家主導で推進されていくのだ。

また、排他的な民族主義と対峙するコスモポリタン的な近代都市としてウィーンを完成させることは、自らの帝国理念、そして帝国の存在意義を内外に知らしめるためにも必要不可欠であった。帝都ウィーンの理念を表象するために、古代ギリシア・ローマ、東ローマ帝国、神聖ローマ帝国、ハプスブルグ帝国、オスマン帝国といった、ウィーンとオーストリア=ハンガリー帝国領がかつて属した過去の偉大な帝国(多民族国家モデル)との連続性を意識した都市開発が推進された。

   *

こうした状況下で建設されたのが、19世紀末のウィーンという都市である。次回はこの都市開発の細部に寄りながら、ウィーン分離派誕生前夜のウィーンを解説していく。

【参考文献】
天貝義教「ウィーンのオーストリア応用美術博物館」、池田祐子編『ウィーン──総合芸術に宿る夢〈西洋近代の都市と芸術 4〉』、竹林社、2016年
池田祐子「ウィーン工房──『ウィーン』ブランド創出とその展開──」、池田祐子編『ウィーン──総合芸術に宿る夢〈西洋近代の都市と芸術 4〉』、竹林社、2016年、276-304頁
池田祐子「序 総合芸術に宿る夢──芸術作品としてのウィーン、そしてオーストリア」、池田祐子編『ウィーン──総合芸術に宿る夢〈西洋近代の都市と芸術 4〉』、竹林社、2016年、7-28頁
池田祐子「世紀末ウィーンのグラフィック──デザインそして生活の刷新にむけて」 、 池田祐子/本橋仁/牧口千夏編『世紀末ウィーンのグラフィック デザインそして生活の刷新にむけて』展覧会カタログ、京都国立近代美術館、2019年、10-23頁
海老澤模奈人「リンクシュトラーセの整備と歴史主義建築群」、池田祐子編『ウィーン──総合芸術に宿る夢〈西洋近代の都市と芸術 4〉』、竹林社、2016年、31-58頁
海野弘『ハプスブルグ美の帝国;バロックから世紀末へ』、集英社、1998年
角山朋子『ウィーン工房──帝都のブランド誕生にみるオーストリア近代デザイン運動史』、彩流社、2021年
新藤淳「閉ざされた円環の重力─グスタフ・クリムトの総合芸術作品をめぐって─」、池田祐子編『ウィーン──総合芸術に宿る夢〈西洋近代の都市と芸術 4〉』、竹林社、2016年、349〜378頁
千足伸行『クリムト作品集』、東京美術、2013年
西川智之「芸術により飾られて; 分離派結成までのウィーンの芸術運動」、名古屋大学大学院国際言語文化研究科『言語文化論集』第29巻第2号、2008年、187-203頁
西川智之「機関誌『Ver Sacrum』とウィーン分離派を巡る言説」、池田祐子編『ウィーン──総合芸術に宿る夢〈西洋近代の都市と芸術 4〉』、竹林社、2016年、253-275頁
西田兼「クリムトとクノップフ」、島根大学言語文化学科編『島根大学法文学部紀要』第24号、島根大学法文学部、2008年
西田兼「ウィーン学派と近代美術」、池田祐子編『ウィーン──総合芸術に宿る夢〈西洋近代の都市と芸術 4〉』、竹林社、2016年、127-151 頁
西田兼「ウィーン美術史美術館階段ホールの壁面装飾──クリムトの《古代エジプト》と《古代ギリシア》を中心に──」、島根大学言語文化学科編『島根大学法文学部紀要』第49号、島根大学法文学部、2020年
C. M.ネーベハイ『クリムト』野村太郎訳、美術公論社、1985年
ハンス・H・ホーフシュテッター『ユーゲントシュティール絵画史』種村季弘/池田香代子訳、河井出書房新社、1990年
古川俊英「象徴主義絵画における「宿命の女」をめぐって :ラファエル前派,モロー,クノップフ」、北海道教育大学編『北海道教育大学紀要』第43巻、北海道教育大学、1993年
フランク・ウィットフォード『クリムト』関根秀一/吉岡昌紀/片切頼嗣/越智博美訳、洋版出版、1993年


ヘッダー画像:オーストリア=ハンガリー帝国国章(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%EF%BC%9D%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%B8%9D%E5%9B%BD#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Austro-hungarian_coat_of_arms_1914.svg)