今回の記事は、大河ドラマでも取り上げられた遠江の国衆井伊氏について。井伊氏は平安時代から浜名湖(浜松市、静岡県湖西市)の北にある井伊谷にいた武士で、「井伊介」を名乗っています。南北朝時代には南朝方につき、室町幕府と戦いました。

戦国時代に駿河の今川氏が遠江へ侵攻すると、遠江守護の斯波氏に味方して今川軍と戦いますが、敗れた井伊次郎は没落し、替わって一族の井伊直平が当主となります。直平は今川氏に従属し、戦国時代まで直平の子孫が井伊谷を支配することになります。

しかし、桶狭間の戦いで井伊直盛が戦死し、井伊氏は当主不在の状況になります。ここで井伊氏の跡を継いだのが直虎でした。直虎は井伊谷の人々の要求を受け入れて徳政(借金の帳消し)を発令します。これが唯一残っている直虎の発給文書です。その後、徳川家康が遠江へ侵攻すると、井伊氏は没落し、井伊谷は菅沼忠久・鈴木重好・近藤康用の「井伊谷三人衆」の領地となります。

一方、井伊直政は家康の家臣となり、江戸時代には彦根の大名となります。幕末の井伊直弼をはじめ、井伊氏は幕府の大老を務める譜代筆頭の家として存続しました。徳川家康に仕え、「徳川四天王」の一人となった井伊直政の生涯については、野田浩子『井伊直政』(中世武士選書39、戎光祥出版、2017年)に詳しく書かれています。

では、井伊直虎は本当に「おんな城主」だったのか。残された史料から、その実態を再検証します。これまでの研究で取り上げられてこなかった問題点が、二つあります。一つ目は、『井伊家伝記』の信憑性です。この史料は戦国時代から200年後に書かれたもので、戦国時代の状況とは異なる部分が多く見受けられます。例えば、井伊氏を引間(浜松)の城主としていますが、当時の引間城主は飯尾氏で、事実とは異なります。

二つ目は、井伊次郎法師が出した黒印状の評価です。花押ではなく印判(ハンコ)も用いて文書を発給した例は、他にもあります。元服前の今川龍王丸(氏親)や、還俗する前の栴岳承芳(今川義元)などです。元服前の子どもや還俗前の僧が文書を発給する場合は、印判を使っていることがわかります。

これらの事例から、「次郎法師」は法名ではなく、幼名なのではいかという推測に至りました。龍譚寺は禅宗ですから、僧の名前に「法師」と付けることは考えられません。逆に、吉法師(織田信長)、三法師(織田秀信)など、「法師」の幼名を用いている人物はほかにもいます。

また、赤松政則の幼名は、ずばり「次郎法師」です。さらに、井伊直虎の徳政令は漢文で書かれています。寿桂尼のような女性が出す文書は、ひらがなで書かれることが一般的です。井伊直盛の菩提寺である龍譚寺の領地を安堵していることから、次郎法師が井伊氏の当主であることは確実だと思います。実は、これらの推測を裏付ける史料が、大河ドラマ「おんな城主直虎」の放送に合わせる形で「発見」されました。

余談ですが、この仮説を最初に文章にしたのは私です。すでに絶版になってしまいましたが、拙著『国衆の戦国史』(洋泉社歴史新書y70、2017年)に掲載されています。大河ドラマ「おんな城主直虎」の放送に合わせて、新たな史料が「発見」されました。この史料をもとに、直虎の実像について私見を示します。

一つ目が、『雑秘説写記』という、京都の井伊美術館が持っている史料です。ここには「井伊谷が井伊殿の甥にあたる井伊次郎に下された」と書いてあります。二つ目は、大河ドラマで古文書考証をされている大石泰史さんに教えていただいた史料ですが、東京大学史料編纂所にある『鈴木家譜』というもので、「井伊谷三人衆」の一人鈴木重時の伝記です。ここでは、今川家の家臣の関口氏経が自分の子供に井伊直盛の跡を継がせた、と書いてあります。もう一つ、井伊美術館から新たな史料が出されています。ここには「井伊直虎は幼弱」とあり、今川氏が滅亡したときに「直虎は逃げる途中で、駿河の花沢で討死した」と書かれています。

これらの史料をまとめると、井伊直虎は関口氏経の子で、当初は次郎法師という幼名を名乗り、直盛の死後に井伊氏の跡を継ぎましたが、今川氏が滅亡した際に討死した、ということになります。また、直盛の娘(大河ドラマでの名は「おとわ」)との関係で見ると、直虎は直盛の娘と結婚して婿養子に入ったのではないか、というのが、私の結論です。

ただし、この結論には反論の余地があります。それは井伊美術館の史料の信憑性です。現在は一部しか公表されていないため、史料全体の公表が待たれるところです。このような史料批判を経て、仮説を確定させていくのが歴史学という学問です。なお、今回お示しした説は、『浜松市博物館報』31号(浜松市博物館、2019年)に私の講演録が載っていますので、ご興味がある方はご一読ください。