南光坊天海といえば、徳川三代のもとで活躍し寛永寺(東京都台東区)創建や日光山(栃木県日光市)中興に尽力した名僧として知られている。そして、彼については古くから伝えられてきた謬説においても有名といえよう。とくに、大河ドラマで東海・畿内の戦国史が扱われるたびに世上を賑わすアレ、天海=惟任(明智)光秀説である。しかし、この説ばかりを見て実際の南光坊天海の前半生を見ないというのはいささかもったいないことと思われる。
南光坊天海が開創した寛永寺は昨年(2025年)に400年を迎え、いくつかのイベントや展示が行われていた。今年(2026年)は寛永寺の水上文義貫主が執筆した『天海 徳川三代』(春秋社、2026年)も刊行されたばかりである。せっかくなのでこれを機に、先行研究が明らかにしてきた南光坊天海その人自身の前半生、徳川家康の政権で辣腕を振るうまでについて学んでみるというのはいかがだろう。
なお、本稿は水上氏著書の紹介ではない。ここでは水上氏を含め先行研究を参観し南光坊天海の前半生を振り返るものである。
一応、歴史について詳しい読者であれば天海=光秀説の誤りについてくどくど言っておく必要もあるまいが、一言だけ加えておこう。天海は寛永20年(1643)に没する。光秀の生年から数えるとギネス記録を超える長命となり、現代人にもほとんど到達できない120歳代を16世紀の人間が達していたということになってしまう。天海の誕生説にはこういった年齢のものも少なくないが、いずれもナンセンスなものだ。そして、天正10年(1582)に姿を消した人物がわずか9年で特定の地域を代表する寺院の住職となるというのは、のちに見るように20から30年の修行が一般的ななかで異常というべきだ。
さて、そうは言ったものの僧侶の前半生というのは多くの場合明らかにしがたいものだ。武家や公家であれば元服してすぐに書状発給に関わりはじめるだろう。一方で寺家で他所に残るような書状を発給するのは、おもに住職の地位についてからがほとんどである。そして、ひとかどの寺院で住職を任されるには実はかなりの時間を要することが定められている。このような慣習は江戸時代初めに制定される寺院諸法度にも確認できる。
たとえば、天海の関わった『関東天台宗法度』には「一、所化衆法談所経歴、不可欠二季事」とあって、法談所などで住職となるには「二季」、すなわち20年の修行が不可欠であると説いている。10代の頃に寺に入るのが多く見られるから、そのような立場になるのはどこまで若くても30代後半から40代になってからということになる。20代には書状が確認できるようになる武家と違って、それなりに成熟するまで自身の発給文書はほとんど確認されないのだ。畿内のような寺家の日記類が多く残されている地域でもなければ僧侶の前半生を追跡することは不可能に近い。
とはいえ、いわゆる高僧は、おおむねどこかの寺院で幼少期から出家していたと考えるのが自然だ。成人後に出家した人物が住坊を持つこともみないではない。たとえば、博多の商人で後に堺南宗寺に以心庵という住坊を持った臨済僧「宗伝」などが知られている。他にも遁世した武士が開いた寺院なども多く存在する。しかし、これらを宗学上の重要寺院における住職と同列に語るわけにはなるまい。大寺院、とくに教団を率いるような立場の僧侶で成人後の出家者はあまり多くない。教団を率いる大寺院の住職に要求される知識量を満たすには相応の時間が必要になるからだ。
この頃、教団を率いる僧侶は武家・公家の子弟からなる「学僧」であることが普通だった。学僧は祈祷や教学を仕事としているから、求められる知識も膨大である。どの宗門であろうと顕密禅律の教学的知識はもとより、易や詩文などの漢学的知識、さらに神仏習合の時代であるから神祇への知識も要求される。大寺院の住職となれば琢磨してこれらを学ぶ学僧達を率いるだけの学識が要求されることになる。それを「成人後に出家して身につけよ」というほうが難しいのは容易に想像できよう。
天海もまた、幼き日に出家し学僧となった一人であったといえる。
天海の誕生については諸説あるが、信頼性の高いものではいずれも蘆名氏所縁の人物であったとしている。実際、その初期の動向も蘆名氏所縁僧と理解して不自然のないものであり、これが定説となっている。辻善之助氏によって信頼性が高いとされた天文5年(1536)説は『孝亮宿祢日次記』の寛永9年(1632)4月17日条に南光坊大僧正が97歳であったとするのによる(辻1953)。『壬生家四巻之日記』の慶長15年(1610)9月6日条にも天海が「夏﨟既傾于七旬」とある。これも夏﨟すなわち年に一度の安居がまもなく七旬、70年とあるので、『孝亮宿祢日次記』とも矛盾しない。寛永20年没で108歳とはなるが諸説では比較的穏当な部類である。
所伝によれば、天海は黒川稲荷堂(福島県会津若松市)別当の弁誉舜幸のもとで得度し、随風と号したとされる。この黒川稲荷堂について詳細は知られていないが、蘆名氏の本拠黒川城(のちの会津若松城)に付随したものと思われ、現在の鶴ヶ城稲荷神社(同前)に当たるものとも思われる。
山門・寺門などを歴訪した随風は天正元年に黒川稲荷堂別当となったとされている。これによって随風は自らの住院を持つひとかどの僧侶になり、そしてその縁故などから蘆名家の帰依僧となったといえよう。
そんな稲荷堂随風に転機が訪れるのは、天正17年(1589)の摺上原の戦いであったろう。この戦いで蘆名氏は黒川城を失う。摺上原の戦い以降に黒川稲荷堂がどのように運営されたかはっきりしないため、確かなことはわからないが、このような状況下で随風が黒川稲荷堂に残ることができたとは考えにくい。蘆名義広(盛重)などと共に佐竹氏のもとへ逃れたと考えるのが自然だろう。実際に蘆名盛重が佐竹氏与力として江戸崎(茨城県稲敷市)へ入ると、これに従って江戸崎へ入り江戸崎不動院(同前)8世住職となった。
江戸崎不動院は小野逢善寺(茨城県稲敷市小野)と並んで江戸崎領を代表する天台寺院であることが指摘されている(盛本1998)。逢善寺定珍(『日本大師先徳明匠記』などの著者)が前の江戸崎城主・土岐治英の尊崇を受けた人物だったこともあってか、蘆名氏に近い随風が江戸崎領内の天台僧を牽引する立場となっていく。逢善寺定珍が権僧正に任ぜられたのも不動院に随風が住している間のことであった。随風は「枕月 三身義」を書写するなど教学を深めていった。
こうして蘆名氏による江戸崎支配のもとで名声を高めていった随風は、慶長2年(1597)頃から天海と名を改める。これは仙波無量寿寺北院(埼玉県川越市小仙波町)の豪海(江戸時代初頭に比叡山正覚院にいた豪海とは別人)に師事するようになったためと考えられている。というのも、北院の住職は代々「海」字を系字としているからだ。天海までの系統を『仙波北院代々祖師過去帳』(『新編増訂 埼玉叢書 第四』 〈国書刊行会、1941年〉所収)によって辿ると以下のようになり、その全員が「海」を系字としていることがわかる。
仙波北院代々
①尊海―②寛海―③忠海―④紹海―⑤良海―⑥穏海―⑦珍海―⑧顕海―⑨賢海―⑩文海―⑪勝海―⑫隆海―⑬慶海―⑭実海―⑮運海―⑯伝海―⑰舜海―⑱純海―⑲祐海―⑳玄海―㉑晃海―㉒能海―㉓瓉海―㉔皇海―㉕亮海―㉖豪海―㉗天海
そして、慶長4年、天海は豪海の後を受けて北院の住職となったとされる。無量寿寺は北院(現在の喜多院)・中院・南院(現在は廃絶)の三院があり、室町時代には談義所と呼ばれる天台教学の研究所として広く知られていた。とくに、小田原北条氏が中院を中心に関東天台支配を図ったことも知られている。天海は関東全体の天台宗に影響を及ぼす立場になったといえよう。
慶長7年、蘆名盛重は佐竹氏の秋田転封に従って角館(秋田県仙北市)に移るが、天海がこれに随行することはなかった。慶長8年には下館城主・水谷勝俊と宗光寺(栃木県真岡市)19世亮弁の請を受けて宗光寺の20世住職となる。以来、宗光寺天海と称した。
実は宗光寺は文禄期に黒子千妙寺(茨城県筑西市)との本末論争が発生していた(この件は内山1990に詳しい)。この論争のなかで下野国長沼に所在した宗光寺は千妙寺の外護者であった多賀谷重経によって破却され、水谷重俊の本拠地下野国久下田に移転していた。宗光寺は灌頂執行の禁止を受け、宗光寺末18寺は出仕を取りやめていた。慶長2年に灌頂執行が正式に認められ、慶長5年に千妙寺の外護者であった多賀谷氏が改易となったが、依然として旧宗光寺末18寺は旧規に復していなかった。慶長頃には長沼の旧地で再建し、亮弁・天海のもとでは2つの宗光寺が存在していた。宗光寺亮弁らにとっては、外から碩学の僧侶を迎えることで状況を打開する意図もあったのかもしれない。
ここで天海が選択されたのにはいくつかの人脈が関係しているようにもみえる。第一に宗光寺が伝えていた椙生流が無量寿寺北院を拠点としていたこと、第二に逢善寺定珍が千妙寺亮俊より恵心流の相承印可を受け(『茨城県史料 中世編1』逢善寺文書6号)、宗光寺亮弁とも近い人物であったこと、第三に天海自身もかつて善昌寺(栃木県桐生市新川町新川)にて千妙寺亮諶とともに禅昌寺道器から『首楞厳経』などを学んでいることなどが知られている。天海は宗光寺・千妙寺をめぐる天台僧の人脈にすでに含まれていたと考えてよいだろう。この頃までに天海は北関東の天台宗人脈の中で重要な位置を占めていたといえるかもしれない。
このように、関東天台を代表する碩学の一人となっていった天海は、慶長7年にはもはや蘆名家帰依僧の範疇を超えた人物となっていた。慶長8年に宗光寺亮弁が天海を迎えたのもそのような状況の表れだった。彼に関東天台の中心たる北関東を離れ、出羽へ向かう選択肢はなくなっていたのだろう。
そして慶長13年、宗光寺天海は駿府(静岡県静岡市)に至る。これ以降、天海は徳川家の天台宗制に広くかかわっていくことになる。ちょうどこの頃、それまで寺院行政一般を扱ってきた西笑承兌が没し閑室元佶と以心崇伝が変わってこれらを預かるようになった。増上寺(東京都港区)の存応慈昌なども駿府へ度々登城している。これらの状況下で宗光寺天海は徳川家康の仏教統制の中に位置づけられる重要人物の一人となっていった。慶長15年に大会のために比叡山へ上り南光坊天海を名乗る。こうして、我々がよく知る「黒衣の宰相」(という表現が今の研究状況でもなお適切かはわからないが)としての南光坊天海が誕生した。
南光坊天海は唐突に登場したのではない。比叡山が戦国期の騒乱を経て混乱するなか、数多くの談義所が存在し教義を保存した関東天台の存在は、比叡山の復興に向けて動くべき全国政権にとってきわめて重要であった。そして、蘆名盛重の角館移転の頃には蘆名氏帰依僧の範疇を飛び越えて活動していた天海は、その知識においても背景においても徳川家の求める人材に他ならなかったのかもしれない。天海が徳川三代のもとで辣腕を振るう背景には、戦国期関東における仏教の歴史が見え隠れしている。
【参考文献】
内山純子「千妙寺と宗光寺の本末争い」(同著『東国における仏教諸宗派の展開』(そしえて、1990年)
辻善之助『日本仏教史 近世篇二』(岩波書店、1953年)
盛本昌弘「第七章第二節 室町~戦国期の寺社と地域社会」(『竜ヶ崎市史 中世編』竜ヶ崎市教育委員会、1998年)

