はじめに

先日、学問の理想のあり方について考えるための、1つの事例になりうる言説を目にした。趣旨は、著者がかつて示した学説に対する批判への再反論の文脈のなかで言及しているものである。前提として、関係する部分を引用しておきたい。

なお、校正中、坂井武尊「斯波義淳の人物像」(『歴史研究』734、2025年)なる文章をたまたま知った。学術雑誌ではないため捨象しても構わないとも思ったが、一応応答しておく。
(中略)
付言すれば、かかる話は一般向けの媒体ではなく、まずは専門家が読む学術雑誌にこそ投稿すべきであろう。(谷口2026)

ようするに、学術的な議論は学術雑誌上で行うべきだ、という主張である。しかし、この主張にはいくつかの問題が含まれている。本稿では、それらを確認していきたい。

1.「学術雑誌」「専門家」とは何か?

引用文を読んでまず問題となるのは、学術雑誌の定義が不明確なことである。ここでは、学術雑誌の説明として「専門家が読む」という修飾節があるため、学術雑誌とは「専門家が読む雑誌」と定義していることがわかる。しかし、このなかにある「専門家」とは具体的に誰のことを指すのかが定義されていない。何かしら歴史に対して独自の意見を持っている人すべてが専門家なのか、大学院生または大学院卒業者のみを専門家としているのかと、「専門家」という言葉1つとっても広義・狭義の意味がある。

ただし、ここでは具体的に『歴史研究』(全国歴史研究会が刊行している雑誌)掲載論文に対して批判していることは明確なので、少なくとも『歴史研究』が「専門家が読まない非学術雑誌である」と評価していることは確実のようだ。たしかに、『歴史研究』は広義の専門家でもない、単に歴史に興味がある人を主要な読者層としていることは間違いない。けれども、「(狭義の)専門家が読まない」雑誌かというと、必ずしもそうではない。

当たり前のことだが、狭義の専門家が集団となって、共通する学術雑誌を読んでいるわけではない。基本的に、所属している学会の雑誌は定期購読することになるが、所属していない学会の雑誌はほとんど読むことはない。たとえば、歴史学では『歴史学研究』『日本史研究』『史学雑誌』の3つが権威の高い雑誌として認知されているが、院生の私はいずれの学会にも所属していないので、掲載論文すべてを読んでいるわけではない。

逆に、所属していない学会の雑誌については、自身の研究に必要なものは個別で購入したり、図書館で借りる、複写するなどしたりして、すべて読まなければならない。こうした論文のなかには、国立国会図書館にすらないような非常にマイナーな論文があることも多々あるが、それでも探して読むものである。専門家とは、媒体の権威に依存して情報を受動的に受け取る者ではなく、必要であればいかなるマイナーな媒体へも能動的にアクセスし、その内容を検証する者を指すのではないだろうか。

つまり、仮に「専門家」の定義を一意に定めたとしても「専門家が読む雑誌」は専門家によって異なるのである。こうした、定義を明確化しないで議論をすることは、学術的な(少なくとも歴史学の)議論においては憚られることの1つであろう。

2.査読制度

ところで、通常はどのような雑誌を学術雑誌と呼んでいるのであろうか。学術雑誌か否かを考えるうえで、一般的に重視されるのは、学会誌(特定の学会が発行している雑誌)か否かと、査読制度の有無である。前者については、学会の定義とは何か(今回でいえば、『歴史研究』を刊行している全国歴史研究会は学会か否か)という新たな定義の問題が発生してしまうので、ここでは議論の俎上にあげるつもりはない。

より大事なのは査読制度の有無についてである。『図書館情報学用語辞典』には、以下のように書かれている。

学術雑誌に投稿された論文の内容を査読者(referee)が審査し,当該雑誌に掲載するか否かを判定する制度.レフェリー制度,審査制ともいう.この制度によって,投稿論文と著者は専門的承認を受け,一方学術雑誌は質を維持することができる.査読は,雑誌の編集委員や投稿論文の内容に詳しい専門家に依頼する.審査を公正に行うために,論文の著者と査読者の両者に互いの氏名を知らせず,投稿論文を審査し,それに応じた書き直しを求める場合が多い.査読の結果却下される件数は,学問分野によって多少異なるが,図書を主要な発表手段としている人文科学においても,この却下率は高い.

ようするに、掲載されている論文の内容の質を担保するための制度が、査読制度ということである。そして、『歴史研究』の投稿規定(https://note.com/ebisukosyo/n/n1655ce57d9ae )を見ると、「①どなたでも投稿いただけます(ただし査読あり)。掲載料はかかりません。」と記されており、査読があることが明確にわかる。

もちろん、実際問題として『歴史研究』掲載論文の多くが学術的な質を持てていないのかもしれない(私はほとんどの論文を読んでいないので、現状では質の判断をすることはできない)。しかし、仮にそうだとしてもそれは内容面を批判すればよい。

いずれにしても、内実はともかくとして少なくとも制度上、『歴史研究』において査読が行われていることは確かであることは確認しておきたい。また、読者層の違い(専門家が読むか否か)は査読制の有無とは独立した基準である。つまり、仮に「専門家が読む雑誌」を一意に定められたとしても、その条件自体はその雑誌の質を担保する条件にはならず、投稿媒体の基準としては適当ではない。

3.学問と権威主義

しかしながら、学術的な議論をするうえで、上記したような制度上の質の担保がどれだけ重要なのか、ということはあらためて考える必要があるだろう。というのは、狭義の専門家であっても、すべての議論を査読誌で行っているわけではないからである。

たとえば、複数の専門家の企画によって刊行された書き下ろし論集は、当然書き下ろしなので査読はなされていない。また、専門家の単著の論集であったとしても、すべてが査読誌に掲載された論文であることは少なく、新稿が含まれていることはよくある。

それでは、これらの査読を経ていない論文に価値はなく、学術的な議論をするうえで捨象しても構わないものなのだろうか。そのようなことはない。むしろ、だからこそ査読の有無ではなく専門家が読むか否かを基準としているのだろう。しかし、その基準が論文の質を担保するものではないことは前述したとおりであり、この基準に拘ることは権威主義といえる。

ある雑誌に対して、専門家が読むものという価値観を一般的なものにしていくためには、実際に読者の多くが専門家であるという実績と、「この雑誌は専門家が読むものである」というイデオロギーを繰り返し実践していくことが必要である。すなわち、現在非専門家を読者層としている雑誌であっても、今後専門家が読むことが増えればそれはたちまち「専門家が読む雑誌」に変質するし、逆に現在専門家が読んでいる雑誌であっても、非専門家の講読を禁止しなければ、たちまち「非専門家が読む雑誌」に変質するのである。

このような、イデオロギーの繰り返し的実践によって維持される価値観が権威の実態であること、そして実力主義を採用する「上からの改革」によってその価値観がたちまち崩壊してしまうことを、中世後期の足利氏を事例として長年にわたって検討してきたのは著者自身だったのではないか。

ルイ14世は、「そんなことは単に儀礼の問題に過ぎないなどと考える者は、大きな過ちを犯している。それは蔑ろにしてよいようなものではないどころか、必ず重大な結果をもたらすだろう」と言っている(らしい)。しかしこれは、絶対主義における君主の発言にすぎず、学術的な議論の根拠にはなりえない。しかし、あえて民主主義社会に生きる我々がこの発言を生かすとしたら、権力者が用いる儀礼行為によって権威主義がはびこらないように注意することであろう。けっして、自分自身が権威主義者となって、権威を利用して自身の立場を拡大するために用いるべきものではない。

ところが、後者のような使い方をしている場面が見受けられるのである。本題から外れるので詳しくは記さないが、同じ文章の別の部分で、「事実立脚性を等閑に」していると批判された書評に対して、「本当に事実立脚性を等閑にしていたら歴史学で博士号など取れないだろうし、そもそもそれが「困った「実証」主義」であることは先に見た」と再反論している。

「困った「実証」主義」の部分は学術的な議論に関わるものでありとくに問題はないが、ここで注目したいのは、批判者の批判が事実ならば「歴史学で博士号など取れない」という理屈を用いていることである。この理屈が問題のある言説であることは、対偶命題を考えてみればわかりやすい。すなわち、「歴史学で博士号が取得できたら事実立脚性を重視している」となる。

この言説が許されるのであれば、すべての批判に対して「私は博士号を取得している。だからその批判は事実ではない」という反論が許されることになる。まさに、本郷和人氏が「博士号さえ持っていれば研究者として責められることはない」「免罪符」であると批判している、近年の歴史学界の問題点そのものを示している言説にほかならない(本郷2022)。

いうまでもなく、博士号の有無はあくまで特定の研究課程を修了したことを証明するにすぎず、個別の論考における質の高さをそのまま保証するものではない。逆に、学位を持たずとも厳格な実証を積み上げる在野の研究者は歴史学の裾野を支えてきた。そうである以上、批判に対する再反論として、自身が博士号取得者であることはまったく根拠たりえないし、学位を「正しさの免罪符」のように語る姿勢は権威主義に依拠しているようにみえても仕方がない言説であろう。

もちろん、それはあくまでも理想論であり、実際には自分の主張の正当性を担保するために権威を利用することもあるかもしれない。しかし、だからといって権威を持っていない他者を貶す必要はないのではないか。

まとめにかえて――開かれた学問をめざして

以上のように、学術的な議論を学術雑誌上で行うべきという論理の端々に垣間見えるのは、特定の権威的枠組みに守られた者のみを対話の相手とし、それ以外を「一般」という名のもとに透明化しようとする、閉塞感に満ちた特権意識である。

そもそも学問とは、その語源であるギリシャ語の「スコレー」が示す通り、生活の必要から離れた自由な「閑暇」のなかで真理を探究する営みとして始まったものである。歴史学もまた、特定の組織に属し、それを生業とする者たちだけの独占物ではない。自身の生活の傍らで史料と向き合い、誠実に知を積み上げる在野の研究者や、開かれた媒体で議論を深める者たちの営みこそが、歴史学のあるべき姿であると考える。

もちろん、啓蒙主義によってそれらの学問は単なる趣味にとどまらず社会への還元を重視することが求められるようになった。しかし、それによって学問の担い手が、博士号取得者という一部の特権階級に限定されたわけではけっしてない。

上記のような、学術雑誌か否かという外面や、恣意的に定義された専門家という身分によって論考を捨象するような立場は、学問の自由な発展を阻害し、不当な分断を招くことにつながるだろう。しかし、学問は、むしろ非専門家にとってこそ明日を覗く望遠鏡、生きるための指標になりえるものである。非専門家も含めたうえで、より自由に、より活発に議論していくことが、学問の発展につながると考えている。だからこそ、権威的枠組みを乗り越えた「開かれた学問」の場が必要なのではないだろうか。

【参考文献】
谷口雄太「中世足利氏・足利一門研究の現状と課題――諸氏の近業に接して――」(『青山学院大学文学部紀要』第67号、2026年)
日本図書館情報学会用語辞典編集委員会編『図書館情報学用語辞典』(丸善出版、2020年)
本郷和人『歴史学者という病』(講談社、2022年)