概要
今年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』の影響により羽柴(豊臣)秀長への注目が集まっている。『豊臣兄弟!』の時代考証を担当している歴史学者が本書の著者・黒田基樹氏である。黒田氏は本書において、これまで十分に明らかにされてこなかった秀長の生涯の概略を本書にまとめたとしている。以下に本書の目次を掲げる。
はじめに
第一章 織田家家臣の時代
第二章 秀吉一門衆筆頭の立場
第三章 四国攻略の総大将
第四章 大和・紀伊・和泉の領国大名
第五章 九州攻めと国割に奔走
第六章 諸大名接待の奔走から闘病生活へ
あとがき
なお、一般的には「豊臣秀長」と表記されることが多いが、「豊臣」は姓で「羽柴」が名字であることや、実際に秀長自身が「羽柴大納言豊臣朝臣秀長」と称していたこと、中世・近世の支配者層は名字を冠して呼称することが通例であることから、「羽柴秀長」という表記を採用するとしている。本稿でもそれに則り「羽柴秀長」と表記し、また「木下」や「長秀」と名乗っていた時期についても「羽柴秀長」で統一する。
本書の内容
第一章では、羽柴秀長の出自から天正10年(1582)までを扱っているが、羽柴秀吉が長浜に入るまでは秀長関連の文書が見つかっておらず、その後も天正10年までは秀長関連の文書が少ないため、『信長公記』などの軍記物や秀吉関連文書とも比較検討されている。それによって秀長の出自に関してや軍事行動、秀長領などの検討などがなされている。
出自に関しては秀吉と秀長が異父兄弟とされていたが父が同一人物であること、秀長の家はもともと上層農民で、清須織田家に仕えた在村被官であったことなどが推定されている。軍事行動や秀長領に関しての検討では、秀長は織田信長の直臣であって秀吉の与力であったとし、中国方面での但馬や因幡などへの侵攻や本能寺の変後の明智領への侵攻、それらの領地配分に関して書かれている。
第二章では、秀吉関連文書や秀長関連文書を中心にして、秀長の領土範囲から賤ヶ岳合戦時や小牧・長久手合戦時の軍事行動、秀吉のもとでの政治的動向などについて検討されている。
秀吉は賤ヶ岳合戦によって反対派の鎮圧を遂げ、主君の信雄という存在がいたにもかかわらず領土配分を自ら行なった。そこで秀長はもともとの但馬・丹波福知山領から丹波が収公され、替わって播磨三郡を与えられ、居城を竹田城から姫路城に移したとしている。またこの領土配分により信雄との確執が生じ、織田信雄・徳川家康との合戦に至った。その合戦時の動向や秀長の改名などについても論じられている。
第三章では、合戦時の細かい動向に関しては軍記物や日記などを使用しているものの、前章と同様にして、紀伊攻めから四国攻め、その後の領土仕置、検地などについて書かれている。
紀伊攻めでは羽柴秀次が大将、秀長が副将となり天正13年3月から行われた。そのなかで4月に秀長は但馬・播磨三郡から紀伊・和泉へと領地替えとなった。その後、紀伊南部に敵対勢力が残っていたにも関わらず6月から秀長を大将とした四国攻めが始まった。8月には長宗我部元親を降参させ四国から帰陣した。このような流れであったため新たな領地での検地は後回しになった。紀伊には熊野地域や高野山領があり、統治が困難な国であった。実際、高野山の検地が行われたのは秀長死後であり、このような難しい土地であったからこそ、秀吉は秀長に紀伊統治を委ねたのではないかと黒田氏は述べている。
第四章では、『多聞院日記』や秀吉・秀長関連文書を中心として、秀長の大和・紀伊・和泉での領国統治の方針や紀伊平定、徳川家康や大友宗麟の秀吉への出仕の様子が書かれている。
領国統治の方針には5つの掟があった。それは秀長が法隆寺などに出した掟書などからわかるという。紀伊平定に関しては天正13年に紀伊を与えられてから、四国攻めや九州攻めを挟んだものの天正17年には紀伊を平定したということが述べられている。大和には中世前期以来の有力な寺社権門が存在しており、紀伊もそれと同様の性格であったのではないかと考えられている。その両国を秀長は与えられたのである。また、秀長はそのようななかで徳川家康や大友宗麟の接待にもあたり、家康と同時に権中納言にも昇進した。その経緯などについても書かれている。
第五章では、『多聞院日記』や秀吉・秀長関連文書を中心として、九州攻めとその戦後処理の過程や羽柴政権内での秀長の立ち位置に関して書かれている。
秀長は九州攻めの際、九州の東側を通って進軍した。そして島津氏を降伏させると、豊前・豊後・日向の国割(領地配分)を担当した。その際に島津氏の反発や大友氏・黒田氏間での境目争いがあったことなどが書かれている。秀長と秀長の家臣たちはそれらに対応しながら国割を行なった。秀長の羽柴政権内での立ち位置に関しては、家康と同時に行われた権大納言への昇進の様子や、後陽成天皇の聚楽第行幸に関して書かれており、後者では羽柴政権内の政治的秩序に関しても触れられている。また秀長はこの頃から闘病が始まったようで、この後しばしば病気に罹ったという。
第六章でも第四章、第五章と同様のアプローチ方法で、諸大名の指南についてや秀長の闘病生活の中での活動を中心に書かれている。また、死去後の法要や人柄についても書かれている。
秀長はこの時点で徳川・毛利・長宗我部・島津など多くの大名の指南を務めていた。また、小田原攻めの後は伊達政宗の指南も務めたという。そのため多くの大名たちが、秀長の屋敷や本拠である郡山を訪れている。しかし、前章でも触れられているようにこの頃には闘病生活が始まっており、天正19年に秀長は52歳で死去した。葬礼には領民なども含めて20万人が集まったといい、秀長が慕われていたことを述べている。また秀長が指南を務めていた大名の中には法要を行う者もおり、領民だけでなく大名からも慕われていたのではないかと推測される。
豊臣政権における秀長の役割
黒田氏があとがきにも書かれているように、秀長が生きていれば豊臣政権の滅亡はなかったのではないかと言われることがある。今回本書を見てきたなかで、秀長はさまざまな大名たちとの調整役を担っており、奉行たちの調整役、戦争時の別働隊の大将なども担っていた。これらの役割を秀長1人で担っていたのである。これはそれだけ秀長に能力があり、兄秀吉が信頼していた証ではないだろうか。その秀長が死去し、それらを担えるだけの能力を備えた人物がおらず、引き継ぎを行えなかったから豊臣政権は崩壊していったのではないだろうか。
また、本書において大和羽柴家・近江羽柴家(尾張羽柴家)・丹波羽柴家について触れられている。これら三家については天野忠幸氏が羽柴御三家とし、徳川御三家との比較を行なっている(天野2025)。この羽柴御三家は、秀次事件や秀長の後を継いだ秀保の死などによって瓦解していくことになるが、それが秀頼を支える役割を担えていたら、豊臣政権の行く末も変わっていたのではないかと私は思う。しかしこれらは想像でしかないため、ここでの記述はこれまでとしたい。
最後にあわせて読みたい書籍について黒田氏の意見をもとに紹介する。本書では秀長の外交や領国統治について述べられていたが、詳しくは黒田氏の『羽柴秀長―外交と領国統治』(講談社、2025年)に書かれているという。また秀長の家臣も本書には登場するが、詳しくは黒田氏の『羽柴秀長とその家臣』(KADOKAWA、2025年)に書かれているという。こちらもあわせて手に取りたい。
【参考文献】
天野忠幸『大和大納言 豊臣秀長』(平凡社、2025年)



