本書の概要
本書は、対決の東国史シリーズ(全7巻)の6巻目にあたり、シリーズのなかで最後に刊行された書籍である。5巻目の『山内上杉氏と扇谷上杉氏』では長享の乱まで、最終巻の『小田原北条氏と越後上杉氏』では上杉謙信の関東出兵以降を中心に記述されている。この間に位置する本書では、永正の乱から天文事件までの流れがまとめられている。
著者の石橋一展氏は、ほんらい鎌倉府の研究者であるが、古河公方の新研究シリーズ(戎光祥出版)で戦国時代の論文をいくつか執筆していることから著者に選ばれたのであろう。目次を確認したい。
プロローグ 戦国前期の東国世界
一 古河公方家の分裂と相克
二 北条氏の南関東侵攻と足利氏
三 第一次国府台合戦と北条氏綱
四 古河公方足利氏と小田原北条氏の対決
エピローグ 〝対決〟の果てに
本書の内容と特徴
シリーズ名が「対決」の東国史であることから、古河公方と北条氏が長年対立関係にあったように思う方も多いかもしれない。しかし、実際にはむしろ、両者は協調関係にある時期のほうが長かった。著者の石橋氏は、両者が対立していたのは天文15年(1546)の河越合戦と天文23年の天文事件のみだとしている(なお、私は天文事件は古河公方と北条氏の対立とは考えていない。この点は後述)。
たしかに、明応2年(1493)に堀越公方・足利茶々丸を伊豆から追い落とし、天文7年の第一次国府台合戦では小弓公方・足利義明を討ち取るなど、北条氏はしばしば足利氏と対立し、命を奪うこともあった。こうしたことから、北条氏はかつて下剋上の代表例と認識されることが多かっただろう。しかし、近年の研究ではこうした理解はほとんど改められてきている。
その契機となったのが、佐藤博信氏による議論である(佐藤1979)。佐藤氏は、北条氏や上杉氏が必ずしも古河公方とは対立しておらず、むしろ基本的には協調関係にあったことを明らかにしたのである。本書の著者・石橋氏の評価も、こうした理解の延長線上にあるものである。
したがって、本書では北条氏が古河公方と連携するなかで、徐々に勢力を拡大していったことが叙述されている。これまでの関東戦国史では、北条氏の勢力拡大のみに焦点が当てられ、しかもそれは伝統的勢力との相克のなかで進んだものという見方が強かった。しかし、本書はこうした叙述はまったくしておらず、あえて極端な表現をするならば、北条氏は古河公方に認められ、古河公方から期待されたからこそ、勢力を拡大していったといっても過言ではない、とすら感じる内容となっている。
けれども、古河公方と北条氏の蜜月関係は永遠と続くものではなかった。北条氏綱から北条氏康へ代替わりが行われると、古河公方・足利晴氏との対立を深めていくことになるのである。その直接的な契機として、晴氏と氏康が共同で行った上野出陣の失敗が指摘されている(黒田2024)。そして、天文15年(1546)の河越合戦で両者は戦い、北条氏の勝利に終わったのである。その後、古河公方家は徐々に勢力を後退させ、天文21年に晴氏は義氏への家督相続に追い込まれる。
前述した伊豆討ち入りや第一次国府台合戦は、足利義澄・足利晴氏の命令・許可を得たうえでの軍事行動であり、明確には下剋上には該当しない。しかし、河越合戦で氏康は晴氏の代わりとなる古河公方を推戴してはおらず、明確に下剋上といえるできごとであった。
それでは、ここから北条氏の下剋上に対する積極的な意思を見出せるかというと、そうではない。河越合戦は、晴氏側が積極的に北条氏との敵対を進めていった結果であり、氏康はむしろ敵対しないように晴氏に求めているのである。このように、古河公方の意図によって戦国大名と敵対関係になる事例はこれ以前にもある。たとえば、山内上杉氏と扇谷上杉氏が戦った長享の乱において、古河公方家は前半では扇谷上杉氏に、後半では山内上杉氏に味方している。このとき、敵対した側(前半の山内上杉氏、後半の扇谷上杉氏)は別の古河公方を推戴していない。したがって、晴氏と氏康が敵対した河越合戦は、たしかに古河公方と北条氏の対立ではあるが、ここに北条氏の下剋上の意思を見出すことは難しいだろう。
けれども、長享の乱では基本的に古河公方が味方している勢力が優勢であり、古河公方と敵対している側は最終的に「古河公方への降参」というかたちに追い込まれている。これに対して、河越合戦では古河公方と敵対した北条氏が勝利し、晴氏は引退に追い込まれているのである。つまり、古河公方の「権威」が、関東における政治動向を位置づける「権力」に結びつかなくなっているといえる。そうした意味で、本書が示すように、河越合戦は関東戦国史の1つの契機とみなされる合戦と評価できるであろう。
本書の課題
次に、本書の課題について述べていきたい。
まず、基礎的な事実について。本書では永禄元年(1558)に足利義氏が右兵衛督になったとしているが、実際には右兵衛佐の誤りである。著者が誤解しているとは思えないので、単なる誤植と捉えられる。
この間違いについて、読者のなかには「督」(長官)か「佐」(次官)かの違いであり些末なものだと思われる方もいらっしゃるかもしれないが、そうではない。義氏が右兵衛佐に任官したのは、頼朝が右兵衛権佐であったことを意識したものである。北条氏は以前から鎌倉幕府執権の北条氏を意識したアピールをいくつもしてきたから、義氏を頼朝に擬することは、「義氏―小田原北条氏」の関係を「頼朝―鎌倉北条氏」の関係になぞらえることにつながるのである(長塚1988)。したがって、右兵衛督ではこうした政策とは無関係の官途ということになってしまい、右兵衛佐でなければならないのである(なお、本書では頼朝も右兵衛督であったと説明している)。
もちろん、書籍から誤植を完全になくすことは不可能である。実際、ゆまにすとのWeb記事でも誤植を見逃していることに後で気づいたものもいくつかある。そのため、過度に著者や出版社を責めるべきではない。一方で、本書は一般書であり、間違った情報が世間に広まってしまう可能性があることもまた事実である。研究者(執筆者)として、またゆまにすとの編集者として、このような誤植をなるべく減らしていく努力をしなければならないと、あらためて痛感した。
また、本書では天文事件も河越合戦と同様に古河公方と北条氏の対決の事例に数えている。しかし、天文事件で北条氏康は「対当 御所様(足利梅千代王丸)江被申、無二被遂御忠信」と発言しており、晴氏との戦いは梅千代王丸(のちの義氏)への奉公として認識していた。つまり、天文事件は名目上、晴氏と梅千代王丸の親子の対立であり、これは永正の乱や関東享禄の内訌と同様の評価をするべきである(岸野2025)。
これについて、永正の乱・関東享禄の内訌は古河公方が主体的に戦っているが、天文事件では梅千代王丸は主体性を持っておらず、氏康が主体になっていたとみることも可能であろう。しかし、実際の戦闘において古河公方が主体性を発揮しない事例はほかにも存在する。たとえば、前述した第一次国府台合戦においても、北条氏綱は足利晴氏の命令に従って足利義明と戦っているが、実際に晴氏は出陣しておらず、戦闘そのものの主導権は氏綱にあった。
本書では、第一次国府台合戦を古河公方と北条氏の対決とは捉えていない。これには、足利義明が古河公方ではなく小弓御所であったから、という点ももちろんあるだろうが、それ以上に名目上は晴氏と義明の対立であったことを評価したものである。以上のことから、天文事件についても、(たしかに氏康と晴氏は敵対しているが)氏康と梅千代王丸は協調関係にあるのだから、北条氏と古河公方の対決事例として数えるべきではないと考える。
また、全体的に北関東の政治動向の叙述が薄いという問題点がある。この点は著者も認識しており、9月20日に行われた「『対決の東国史』完結記念シンポジウム 協調と対立の東国史」において言及している(石橋2025)。もっとも、これは本書に限った課題ではなく、関東戦国史全体の課題といえる論点である。今後は、とくに常陸・下野の国衆と古河公方の関係を論じていく必要があるだろう。
【参考文献】
石橋一展「古河公方と東国武家の動向―北関東の武家を中心に―」(「『対決の東国史』完結記念シンポジウム 協調と対立の東国史」レジュメ、2025年9月20日)
岸野達也「足利義氏と北条家」(黒田基樹編著『足利義氏・古河姫君〈古河公方の新研究3〉』戎光祥出版、2025年)
黒田基樹『図説 北条氏康 クロニクルでたどる〝天下無双の覇主〟』(戎光祥出版、2024年)
佐藤博信「戦国期における東国国家論の一視点――古河公方足利氏と後北条氏を中心として――」(同著『古河公方足利氏の研究』校倉書房、1989年、初出1979年)
長塚孝「戦国武将の官途・受領名―古河公方足利氏と後北条氏を事例にして―」(黒田基樹編『北条氏康〈中世関東武士の研究第23巻〉』戎光祥出版、2018年、初出1988年)




