10月25日、敬愛大学で里見氏研究会第33回例会が開催された。報告者は岸野達也氏で、論題は「羽柴氏による関東十刹公帖の発給とその背景―月桂院殿の動向に注目して」である。

当日の報告は、「はじめに」の後に、「一、足利義氏死後の公帖発給の展開」、「二、月桂院殿の動向」と続き、「おわりに」にて閉じられるという構成であった。

「はじめに」では、先行研究に倣い、従前、室町将軍が担ってきた京都五山・十刹や鎌倉五山への公帖発給を、天正13年(1585)以降、関白羽柴秀吉が継承したのに対し、関東十刹では慶長年間まで関東足利氏が発給権を保持していたことを確認した。とはいえ、そうした関東十刹についても羽柴氏が公帖を発給した時期があった。このことに関し、その理由を秀吉への配慮・遠慮に求めた先行研究の見解に触れたうえで、あらためて、

  1. 羽柴氏はなぜ公帖を発給できたのか?
  2. 禅宗はどのような基準で公帖の申請相手を選んだのか?

という疑問を、本報告で論じるべき問題として、岸野氏は投げかけた。

まず、「一、足利義氏死後の公帖発給の展開」では、天正10年に義氏が死去した後の公帖発給が以下のように変遷していることを明らかにした。

  • 天正11~18年:古河姫君(義氏女)
  • 同18~慶長3年(1598):羽柴秀吉・秀次
  • 同3~7年:喜連川頼氏(古河姫君の夫)

つまり、天正末期から慶長初期にかけては、羽柴氏が公帖を発給していたということになる。そのうえで、岸野氏は、こうした発給者の変更について、小田原合戦(天正18年)や秀吉の死去(慶長3年)との関係にとどまらない理解を示した。すなわち、羽柴氏による公帖の発給は、古河姫君や頼氏によるそれと同様、古河公方が不在な状況における中継ぎと見なしうるものであって、羽柴氏を古河公方の名代を務めることができる一族と判断したゆえに、禅宗寺院は同氏に申請したのだという。そして、戦国時代に一門・親類が名代を務めた例がしばしば見られたことと関連づければ、頼氏姉の月桂院殿(足利島子)が秀吉に嫁いだ事実が注目されると指摘した。

続く「二、月桂院殿の動向」では、時系列に沿って彼女の動向の整理が行われた。ここでとくに重要な点は、以下の2点と考えられる。1つは、月桂院殿が秀吉の別妻であった可能性が高いと位置づけたことである。近年、戦国時代の女性史研究が進展しており、これまで「側室」として一括りに考えられてきた女性について、儀礼的に本妻(=「正室」)と同格の別妻と、そうではない妾に区別する必要性が示されている(黒田2021など)。したがって、月桂院殿が妾ではなく別妻であると判別したことは重要なものと捉えられる。

もう1つは、秀吉死後の慶長3年11月に頼氏が増田長盛に月桂院殿の身上を相談した時点で彼女が羽柴氏と離縁していたと理解したことである。

こうした検討を経て、「おわりに」において、月桂院殿と羽柴氏が婚姻関係にあった時期は天正18年末から慶長3年10月頃までであり、羽柴氏が公帖を発給していた時期と一致しており、さらに、同氏が関東足利氏の親類であったことを背景として、禅宗寺院が同氏に対して公帖の発給を依頼したと岸野氏は結論づけた。なお、関東足利氏との間に縁戚関係がない徳川氏が、後に公帖を発給した点については、今後の課題であるとした。

以上のような岸野氏の報告を受け、その後に質疑応答が行われた。

まず、岸野氏が提示した史料のうち、増田長盛宛て山中長俊書状(「喜連川文書」、小田原合戦後の月桂院殿の上洛に関する記述が見られる)の内容の解釈や、山中長俊宛て足利頼淳書状写(「喜連川文書」)の年次比定(先行研究において文禄2年か、同3年なのかという議論があった)に関する確認がなされた。次に、公帖発給の事例に関して、足利持氏期に関東管領によって発給された例があるとの指摘があった。

さらに、月桂院殿の動向に議論が及んだ。小田原合戦以前に、下野国北部の塩谷氏に嫁いだとされる点につき、後年、喜連川氏の由緒を説明するために創出された可能性が提起された。また、『寛政重修諸家譜』に見られる徳川家康三女の「振姫殿に附属せられ」という記事について、月桂院殿が振姫の母親代わりだったとすれば、家康の別妻待遇との理解もありえる旨、言及がなされた。

以下では、本報告を拝聴した筆者の感想を簡述する。筆者がとくに興味を惹いた指摘は、羽柴氏による公帖の発給と、秀吉と月桂院殿の婚姻関係とを関連づけて理解したことであろう。

同氏による公帖の発給が行われた時期が、天正18年から慶長3年であるとした場合、その始まりには小田原合戦が、終わりには秀吉の死が何らかのかたちで影響したであろうということは、想像にかたくない。しかし、それだけでは本報告に際し、岸野氏が設定した疑問点への解答としては不充分である。

本報告では、そこに、秀吉と月桂院殿との婚姻関係という補助線を引いた。その結果として得られた、羽柴氏は関東足利氏の親類であり、それゆえに、公帖発給者としての適格性を備えていたという結論は、禅宗寺院側から羽柴氏に対し公帖の発給を申請した動機として、充分な説得力を持つものと考えられる。本報告によって、関東十刹の禅宗寺院が羽柴氏に対して公帖の発給を申請した理由はほぼ明らかにされたといえよう。

一方で、発給者である政治権力は、どのような動機・目的のもとに公帖を発給するという判断をした(あるいは発給者が交替した)のであろうか。逆の視点からの解明もぜひ望みたい。岸野氏のさらなる研究成果に期待しつつ、擱筆する。

【参考文献】
黒田基樹『戦国「おんな家長」の群像』(笠間書院、2021年)