現代書館/2026年10月刊/A5判変型/208ページ/1980円/ISBN:978-4-7684-7169-2

喜連川家は藩なのか

本書は「シリーズ藩物語」の1つで、喜連川氏が支配していた家・国について扱っている書籍である。タイトルからもわかるように、本書ではこの家・国を喜連川藩と呼称しているが、実は「この家・国を藩と呼称することが適切なのかどうか」ということ自体、自明のことではない。というのも、藩という学術用語は大名が治める家・国のことを指すが、その大名という学術用語は、一般的に1万石以上を領有する武士を意味する。

しかし、喜連川氏の支配領域の石高は5000石であり、1万石に満たない。つまり、(史料用語としてはともかく)学術用語としての定義上、正確には喜連川氏の治める家・国は「喜連川藩」と呼ぶべきではなく、あえて記すとしたら「喜連川家」などと呼ぶのが適切となる。

そうだとしても、本書で喜連川藩という用語が使われているだけではなく、たとえば『藩史大辞典』などでも喜連川藩として立項されているのである。このように、5000石であるにもかかわらず藩として判断される理由はおもに、①江戸城での儀礼の待遇が10万石並みであること、②『武鑑』(大名諸家・幕府諸役人を記載の主体にした武家の名鑑)に喜連川氏は大名の枠で記載されていること、の2つがあげられる。

すなわち、学術上の定義において喜連川家は藩ではないが、同時代に藩と同じ扱いを受けていたのでそれにあわせて喜連川藩としているのである。そのため、本稿でも基本的には「喜連川藩」という用語を使いたい。

本書は、このような喜連川藩の特殊性に注目しながら、その実態をまとめた書籍である。目次を確認したい。

第一章 喜連川藩の誕生
第二章 喜連川藩の格式
第三章 名君揃いの喜連川藩主
第四章 喜連川藩の財政と喜連川宿のにぎわい
第五章 喜連川家の学問と医学、諸芸
第六章 幕末の喜連川藩

喜連川氏の血統と権威

いうまでもないことだが、本書でもっとも注目するべきなのは第二章である。前述した喜連川藩の特殊な立場は、ほとんどその格式に由来するものだからである。

そもそも、幕府と藩の関係は御恩と奉公の関係にあり、幕府が藩の支配領域を守る代わりに藩は幕府に対して軍役・普請役や参勤交代などの奉公をする必要があった。けれども、喜連川藩は「諸役免除」「国勝手(参勤免除)」の待遇、すなわち奉公の義務を負っていなかったのである。

そのため、実際には5000石を宛行われていたにもかかわらず、建前上は無高(つまり0石)という扱いになっており、御恩については実際にはあるが奉公がないことにあわせて、名目上は御恩もないかたちになっていたのである。このことは江戸幕府と喜連川藩の間に主従関係がなかったことを意味しており、そのため喜連川氏は客分扱いであり、将軍を意味する「公方」の呼称が使用されていた。

また、儀礼上も喜連川氏は優遇されていた。喜連川氏が実高5000石にもかかわらず10万石並みの待遇を受けたことは前述したが、その10万石待遇というのは具体的には江戸城の儀礼において示されている。たとえば、年頭儀礼では国持大名と同格の扱いを受けているのである。

このように、喜連川氏が政治的(奉公の義務免除)・儀礼的(10万石並み)に特別待遇を受けているのは、ひとえに室町期に関東の“将軍”の立場にあった鎌倉公方の末裔という血統の高さに基づくものである。こうした貴種性は、武士といった上層階級のなかだけでなく百姓に対しても権威性を発揮するものであった。

たとえば、縁切寺として有名な東慶寺(神奈川県鎌倉市)の住持は喜連川氏の女性が務めている。さらに、喜連川藩そのものも駆け込み先として有名であった。寺院が縁切寺としての機能を果たせるのは、宗教的な場所としてのアジールだったからであるが、喜連川領もアジールとして認識されていたのは、まさに江戸幕府との主従関係がない=統治権力が及ばない地域だったからといえよう。

また、五街道の1つである日光道中が喜連川領内を通り、喜連川城下に喜連川宿があったことも重要である。本書によれば、喜連川藩主が橋の下で釣りをしていた際に仙台藩の大名行列が頭上を通ってしまい、その無礼の詫びとして仙台藩主が喜連川藩主に金一封を献上したという逸話をはじめとして、さまざまな配慮をしていたようすが記されている。

このことは、直接的には大名間における喜連川氏の権威の高さを示しているものであるが、重要なのは大名行列は庶民に対してアピールするものでもあるということである。たとえば、各藩は行列を華美にし、庶民はその見物を娯楽としている。とするならば、喜連川領内における大名行列のさまざまな配慮もまた、喜連川宿にいる庶民の目にもとまったことだろう。その意味で、都市としての喜連川と、喜連川を通る奥州道中への注目も重要となる。

喜連川氏研究の今後の課題

ただし、本書にはいくつか課題もみえる。まず、基礎的な情報から。たとえば、本書では「伊勢宗瑞(後の北条早雲)」としているが、一次史料に基づくならばむしろ「伊勢盛時(後の宗瑞)」と記すのが正確である(黒田2019)。

また、足利頼淳の妻は「佐野政綱(晴綱)の娘」とされている。これは「喜連川義氏家譜」「足利家系譜」「佐野系図」などに記載されている情報である。しかし、一次史料で佐野政綱・佐野晴綱という人物は登場しない。また、「政」「晴」はそれぞれ足利政氏・足利晴氏の偏諱と考えられるため、史料に登場する嫡流が偏諱を貰っていないにもかかわらず、史料に登場しない分家が貰っている可能性も考えにくい。そのため、世代的には一次史料に現れる佐野直綱が頼淳妻の父であるとされている(黒田2012)。

さらに、月桂院殿(足利島子)について「秀吉の死後、島子は京都の東寺で出家して月桂院となるが、後に徳川家康に召し出され、家康の三女振姫が会津の蒲生家に嫁ぐ際に従った」としている。この情報は『寛政重修諸家譜』に記されている情報だが、そもそも振姫が蒲生家に嫁いだのは慶長元年(1596)のことである(尾下2009)。単純に考えるならば、もともと蒲生家に嫁いでいた振姫の女房衆として、秀吉死後に月桂院殿が選ばれたと考えるべきであろう。

しかも、ここで示した反証は直近で明らかになった事実というわけではなく、10年以上前にはすでにわかっていたことである。このように、本書には史料批判や考証があまりなされず、史料の記述をそのまま採用してしまっている点が多くみられる。この点は気をつけて読む必要がある。

次に、評価(とくに先入観)の問題について。前項でみたとおり、喜連川氏の権威が高く、その背景には喜連川氏の貴種性があったことは事実である。しかし、それが前提となりすぎており、喜連川氏に関するものはなんでも貴種性・権威の側面からの評価になってしまっているという問題もある。

こうした状況に対して、近年では必ずしも喜連川氏の権威を前提としない評価もみられるようになっている。たとえば、泉正人氏は喜連川氏の立場が交代寄合である那須衆の一員として位置づけられていたと評価し(泉2010)、戸谷穂高氏は豊臣政権期における頼氏が定期的に参勤をしていたことを明らかにしている(戸谷2024)。

すなわち、喜連川氏の貴種性による権威は江戸時代中期以降の位置づけであり、少なくとも前期においてはそのようには位置づけられていなかったわけであるが、本書ではこのような成果はあまり反映されていない。たとえば、正保4年(1647)に発生した喜連川騒動について、本書では通常は改易になるところを喜連川氏の権威性によって改易を免れたと評価している。しかし、上記の研究成果をふまえれば、この指摘についても再興の余地があるだろう。

最後に、残存史料の問題である。これは以前も指摘したが(拙稿2026)、喜連川文書には近世史料もたくさん残存している。それにもかかわらず、本書の記述にはほとんど活用されていないように見受けられる。これは本書に限らず、(おそらく本書のもとになっている)『喜連川町史』でも同様の状態になっており、史料の年次比定から作業を進めていく必要があるだろう。

【参考文献】
泉正人「近世初期の喜連川家と徳川氏」(『早実研究紀要』44号、2010年)
尾下成敏「蒲生氏と徳川政権」(谷徹也編著『蒲生氏郷』戒光祥出版、2021年、初出2009年)
黒田基樹「桐生佐野氏の展開」(同著『古河公方と北条氏〈地域の中世12〉』岩田書院、2012年)
黒田基樹『戦国大名・伊勢宗瑞』(KADOKAWA、2019年)
戸谷穂高「喜連川足利頼氏と豊臣政権」(『里見氏研究』第3号、2024年)
拙稿「【展覧会評】鎌倉公方足利氏の至宝 喜連川家文書」(ゆまにすと、2026年)