はじめに
教科書などでは「豊臣秀吉」と記載されているように、一般的に「豊臣」は名字であると認識されている。しかし、正確には「豊臣」というのは氏(源平藤橘と同様)であった。そのため、『豊臣兄弟!』にあわせて刊行された関連書籍のなかには、しばしば「羽柴秀吉」と記載しているものも多く、そうした書籍では「秀吉の名字は終生羽柴であった」と解説されている。このことをはじめて指摘したのは黒田基樹氏で(黒田1997)、それこそ『豊臣兄弟!』の放送を契機として学界にも一般的にも広まってきている説といえる。
けれども、依然として秀吉の名字を羽柴とみなす見解には反論も多い。その理由は究極的には、実際に秀吉が羽柴名字を使用していたことを確認できるのが天正13年5月までであることに尽きる(谷2025)。つまり、秀吉が豊臣氏を賜った後に羽柴名字を使用していることは確認できないのである。
ただし、史料がないことは、羽柴名字ではなかったことの直接的な証拠にはなりえない。なぜなら、たとえば足利将軍は基本的に「室町殿」などと呼称されて足利名字は使用していないし、徳川将軍も「公方様」などと呼称されてやはり徳川名字は使用していないからである。つまり、「史料がない」ことだけを理由として秀吉を「豊臣秀吉」と記載するならば、同様に「源義満」「源家光」などとしなければならない。しかし、実際にはそのように表記している研究者は見当たらない。
そのため、「豊臣秀吉」を採用する立場の人は、史料がないことに加えて「秀吉の名字は羽柴ではなかった」とする理由を示す必要があり、実際にそれを示したうえで使用している。ただし、「羽柴秀吉」を採用する立場との議論が必ずしも噛み合っていない状況にあるといえる。また、「豊臣秀吉」を採用する立場のなかでも、その根拠は研究者によっていくつか分かれているにもかかわらず、結果として「羽柴秀吉」か「豊臣秀吉」かという二項対立に収斂されてしまい、根拠の違いにまでふみこめてない状況にある。
そこで、今回はあらためて「秀吉の名字は羽柴ではなかった」とする根拠をあげて、それらの考えについて再検討を行いたい。
1.現状で見解の相違がほぼない点
議論の前提となるので史料から確定できる情報をまとめておきたい。読者の方はすでにご存じのことであろうが、天正18年10月付け羽柴秀長都状(「奈良国立博物館所蔵文書」、『羽柴秀長文書集』305号)に「羽柴大納言豊臣朝臣秀長」と記されている。ここから、秀長が羽柴名字であったことは確定する。
さらに、秀長のみが羽柴名字だったとは考えにくいので、秀吉の一門、具体的には大和羽柴氏・尾張羽柴氏・岐阜羽柴氏と丹波羽柴氏(小早川氏に養子に行く前の秀俊)は羽柴名字であったと捉えてよいだろう(谷2025)。
なお、秀次について、関白に任官するまで羽柴名字であったことは確定している。しかし、従来は関白任官を豊臣宗家(大坂羽柴氏)相続と同義と捉えていたため、その時期においては後述するように羽柴名字を使わない立場を取る人も多かった。
しかし、近年の研究成果に照らせば、秀次は秀吉の養子にはなっておらずあくまでも猶子であり(尾下2025)、尾張羽柴氏当主という位置づけのまま関白職・豊臣氏長者となっている(小川2026)。そのため、関白任官後の秀次も羽柴名字であったことは確実といってよいだろう。したがって、現状で見解が分かれているのは秀吉・秀頼の名字といえる。
2.「秀吉に名字はない」説
「嫡流は名字を名乗らない」説
「豊臣秀吉」記載を採用する立場の多くは、「豊臣」はたしかに氏であるが、秀吉には名字がないので例外的に氏+諱で「豊臣秀吉」(とよとみのひでよし)とするべきである、という議論を展開する人が多い。
そして、その根拠としてあげられるのはおもに2つある。1つ目が、嫡流は名字を名乗らないとするものである(福田2014など)。ただし、何をもって嫡流とするのかの判断基準が記されていないという疑問は残っている。おそらくは秀吉・秀頼が豊臣氏長者になっているという点で、嫡流と判断しているのかもしれない。
しかし、前述したように秀次は庶流でありながら氏長者になっているし、藤原氏においても嫡流は近衛氏であり、残りの4摂家から藤氏長者を輩出しても、それらが嫡流化したと評価されることは一般的ではない。
また、比較対象として「源氏の嫡流たる源頼朝に名字がない」ことと同様であると論じているが、これは明確に間違っている。そもそも、頼朝は源氏長者になってない。
さらに、頼朝が源氏嫡流であるという認識は、鎌倉幕府が自らの正当性を喧伝するために作ったものであることが知られている。源義家以降、河内源氏は内紛を繰り返し、為義段階では源季範(文徳源氏)・源光保(美濃源氏)よりも低い立場であった。そのうえ、頼朝の父・源義朝は為義から廃嫡されており、河内源氏のなかでも義朝系は庶流扱いだったのである(川合2011)。
したがって、頼朝に名字がないことは嫡流・庶流とは無関係であり、ここから秀吉・秀頼の名字について仮説を立てるのは論証過程に問題があるといえる。
「創氏直後に名字は存在しない」説
2つ目が、豊臣氏は新たに創出された氏であるため名字は存在しない、という説である(水野2010)。そもそも、古代には名字がなく、中世に入って名字が登場してきたわけだが、この背景として親族集団を弁別する目的があったとしている。そして、「新姓である豊臣姓には同族が存在しないわけであるから、同族内での家格を示す名字を用いる必要性も無い」とする論理展開である。
けれども、豊臣政権期における叙任はすべて豊臣氏で行われており、実際の血縁関係はないものの擬制的に同族に位置づけられているので、「新姓である豊臣姓には同族が存在しない」というのは事実と異なる。また、豊臣氏のなかでも公家成大名は羽柴名字を名乗り、諸大夫成大名は羽柴名字を名乗っていない(堀越2025)。したがって、まさに豊臣氏の中で羽林家と諸大夫家の家格差を示すために名字を用いていたのである。
ただし、秀吉・秀頼以外の豊臣氏が名字を名乗っていることと、秀吉・秀頼本人は区別するべきであるという再反論も存在する(水野2026)。つまり、氏長者である秀吉・秀頼は天皇から氏を与えられている存在だが、それ以外の豊臣氏は氏長者から与えられた存在であり、性格が異なるため名字が存在する、という理解である。しかし、これは論理展開が矛盾している。そもそもこの議論は、秀吉が藤原鎌足を意識していたことを前提として、鎌足が藤原氏を創出したことを比較対象にしている議論である。つまり、鎌足が名字を名乗っていないということは、秀吉も名字を名乗っていない、という論理展開である。
それでは、比較対象となっている藤原氏の事例をもとに、氏長者以外の人物の扱いをみてみる。鎌足が藤原氏を創出した時点では、藤原氏は鎌足個人が名乗っていた氏であり、一族全体が名乗っていたわけではない。八色の姓が制定される直前頃からあらためて鎌足の遺族に藤原氏が与えられていくことになる(高島1980)。
いうまでもないことだが、このときに氏上(のちの氏長者)になっているのは藤原不比等である。それでは不比等以外の藤原氏についてみてみると、彼らも名字を使用していない。つまり、秀長が羽柴名字を名乗っていたことを「氏長者ではないから」と説明した場合、氏長者ではない藤原氏が名字を名乗ってないことと相違が生まれてしまい、秀吉が藤原氏を模倣してきたというこれまでの立論と矛盾してしまう。
さらに、名字の成立過程についても近年では異説が唱えられるようになってきている。前述した親族集団の弁別という理解は、氏が創出されてから時間が経ったことで同じ氏を名乗る人物が増えすぎたため、区別する必要が生まれたという前提があり、その時期としては平安時代後期が始期とされている。
しかし、近年では鎌倉時代初期まで名字はなかったという理解も出てきているのである(坂田2006)。というのも、鎌倉時代初期までは分割相続が一般的であった。そのため、後世において名字として認識される北条・三浦などは一族全体が名乗っていたわけではなく、あくまでも地名を冠しているにすぎない、ということである。
このように書くと難しいが、この見解は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で採用されていたので、その描写をもとにすると理解しやすくなる。主人公の北条義時は、ドラマ内では一貫して「ほうじょうのよしとき」と呼ばれている。つまり、「北条に住んでいる義時」という意味であり、一族を指す名称にはなっていない、ということである。
そして、名字が成立したのは鎌倉時代後期に単独相続が一般化したことで、家産が成立して永続性をもった家が出現する。これにより、家全体を示す名として名字が誕生したというのが、近年における一般的な理解となっている。したがって、頼朝が名字を名乗っていないのは源氏嫡流だからではなく、単に単独相続が一般化する以前だったからと捉えればよい。
このことからすれば、名字の有無は家制度の有無と連動しているとみなすべきである。そして、秀吉個人の財産(大坂城や直轄領)は秀吉死後には秀頼にそのまま相続されていることから、「秀吉家」とでもいうべき家があったことは間違いないのであり、家がある以上、(羽柴であったかどうかは別として)何かしら名字はあったというほかない。
【参考文献】
小川雄「秀次の関白職相続」(黒田基樹編『羽柴秀次とその時代〈戦国大名の新研究5〉』戎光祥出版、2026年)
尾下成敏「豊臣秀次とその弟たち(小吉秀勝・秀保)の実像」(河内将芳編『秀吉と豊臣一族研究の最前線』山川出版社、2025年)
川合康「鎌倉幕府の草創神話」(同著『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年、2011年)
黒田基樹「慶長期大名の氏姓と官位」(同著『近世初期大名の身分秩序と文書〈シリーズ・戎光祥研究叢書第11巻〉』戎光祥出版、2016年、初出1997年)
坂田聡『苗字と名前の歴史〈歴史文化ライブラリー211〉』(吉川弘文館、2006年)
高島正人「藤原朝臣氏の成立」(同著『奈良時代の藤原氏と朝政』吉川弘文館、1999年、初出1980年)
谷徹也「豊臣政権研究序説」(同著『豊臣政権の統治構造』名古屋大学出版会、2025年)
福田千鶴『豊臣秀頼〈歴史文化ライブラリー387〉』(吉川弘文館、2014年)
堀越祐一「「羽柴」「豊臣」には、どのような意味があるのか」(前掲『秀吉と豊臣一族研究の最前線』、2025年)
水野伍貴「羽柴豊臣朝臣秀吉の大名統制― 名乗りの再検討をめく守って ―」(『日本地域政策研究』8巻、2010年)
水野伍貴「秀吉の名乗りは終生「羽柴秀吉」なのか⁈」(水野伍貴の歴史チャンネル、2026年10月3日、https://youtu.be/HjCZYyoxpM8 )

