山梨県立博物館開館20年を記念して「武田勝頼―日本に隠れなき弓取―」展が開かれた。

武田勝頼の生涯を書状を中心とした史料で紹介した展示である。山梨県立博物館では、これまで武田信玄を主題とした特別展を3回開催している。しかし、信玄の後を継いだ勝頼についての展示はこれまで一度も開催されたことがなく、今回の展示がはじめてのものとなる。それだけ近年、武田勝頼に対して世間の注目が集まっている証といえるだろう。

第一章の展示「「諏方の子」から武田家家督へ」は諏方勝頼としての活動からスタートする。武田勝頼は当初、高遠諏方氏を継いでおり、武田家の家督を継ぐ予定はなかった。義信事件の結果、嫡男の武田義信が死去したため、勝頼は武田家の後継者になった。

この章では寿桂尼の死去を知らせる勝頼の書状が印象深い。この後、武田氏が今川氏を攻めることを思い合わせると、この情報はかなり重要であったに違いなく、武田方の興奮や今川氏の落胆にまで思いをはせてしまう。

第二章「信玄の遺言」では、信玄死後の勝頼の時代を取り上げている。天正2年(1574)に勝頼が高天神城(静岡県掛川市)を攻略したことに対して祝意を述べた三好存康書状が展示されていた。三好家は少し変わった花押を用いる人が多いが、存康も凝った花押を使っている。三好の中では少し変わった花押が好まれていたのだろうか?くずし字が読めなくても書状は鑑賞のポイントが色々あって楽しい。

また、勝頼の東美濃・遠江への拡大は、勝頼への評価を改めるきっかけとなり、信長も勝頼への警戒感を強めている。

第三章「長篠合戦」では、武田が大敗した天正3年の長篠合戦を取り上げている。これまでは勝頼の無能さが語られる合戦であったが、近年では実証的に検討が行われ、合戦全体が再評価されている。

足利義昭側近の大和孝宗書状は、墨も美しく紙も字配りも書体もよい、とても整った書状である。力量のある祐筆が書いてるということが一目で見てわかる。懇意にしている研究者から「西国の文書ばかり見てると東国の文書は全部偽文書に見えてくるから気を付けてね」と教えられたことが頭をよぎった。東国と西国の書状を並べて見ると、西国の書状のほうが紙の質が良く洗練されており、祐筆の技術の差が感じられた。

長篠合戦図屏風も展示されていて、「○○がここにいる!」と有名武将の名前が記された付箋を読むのが楽しかった。今回の展示には出品されていないが、合戦後に長岡藤孝(細川幽斎)に宛てた織田信長書状では、戦に勝った信長がはしゃぎにはしゃいでいるテンションが知れるので、興味を持った方はぜひ読んで欲しい。

第四章「新たな体制へ」では、長篠合戦で老臣を失った勝頼が家中を再編する様子を取り上げている。実は、長篠合戦には敗北したものの、その後、勝頼は領地を広げている。そのため、合戦の敗北は武田滅亡に直結していないのである。

三章までに比べると勝頼書状の字が大きくなり、全体的に威儀が整えられているように感じられた。虚栄なのか、危機に対する覚悟なのか他の理由なのか、気になるところである。

第五章「新府城築城」では、絵図や出土物に関する展示が多かった。新府城(山梨県韮崎市)の築城に関してはあまり史料が多く残っていないらしい。加津野信昌(真田昌幸の弟、後の真田信尹)屋敷の可能性がある場所から出土された碁石は、明らかに河原にある丸い石で大きさもまちまちだった。屋敷で働いてる子供たちが拾ってくるのだろうかと考えながら鑑賞した。

第六章「滅亡への道」では、高天神城落城、木曾義昌の謀反などにより武田家は滅亡に追い込まれていく様子を取り上げている。勝頼妻の桂林院殿の願文は胸が痛くなるものだった。夫の勝利を祈願することは妻として当然の務めだったのかもしれないが、このような願文があるので、供養として勝頼と桂林院殿は一緒に肖像画に描かれるのだろう。終章でも勝頼と桂林院殿と信勝の像が展示されていて、江戸時代の人々も同じように二人の境遇に心を動かされたのだろうと思った。

勝頼の生涯がわかりやすく説明された、いい展示だったと感じた。

私はくずし字がほとんど読めないため、書状の内容を読み取ることはできない。しかし、紙の質だったり、大きさだったり、折り目などを観察できるので、これからも実物の書状を見ていきたいと思っている。