ミネルヴァ書房/2026年1月刊/四六判/276ページ/3080円/ISBN:9784623099849

本書は、2025年12月に刊行された藤堂高虎の人物伝書である。執筆者は藤田達生氏で、三重大学の名誉教授を務めている。藤堂高虎といえば、2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にて登場が決定している。主人公羽柴秀長の家臣のなかで、おそらく一番活躍どころがあるであろう人物であり、その活躍が期待されている。著者の藤田氏も以前から藤堂高虎に関しては研究しているため、大河ドラマで話題になる人物の予習としてはうってつけの一冊になるであろう。

さて、本書はおおまかに、秀長家臣時代、家康との接近、関ヶ原の戦いから大坂の陣、徳川幕府創世期の活躍、そして後世へどうつながっていくのか⋯⋯という構成になっている。大河ドラマの予習という意味では、その秀長家臣時代、家康との接近に至るまでの経緯が重要である(第1・2章)。しかし、本記事では、むしろ本書の後半部を中心として、紹介していきたい。というより、本書はかなり詳細に高虎の事績を追いかけており、事実ベースで話が進んでいくため、大河ドラマのいわば「ネタバレ」にもなってしまいかねないため、Web記事たる本記事にてその部分の紹介することは避けたい。その部分については、ぜひネタバレOKな大河ドラマファンの方々は、本書をご購入いただきたい。

さて、その本書の後半部とは第4章「徳川公儀を創る」、第5章「藩士群像」、第6章「寛永政治への参画」になる。まさに、戦国時代が終わり、豊臣政権も滅亡し、いよいよ中世から近世へと時代が移り変わる、中近世移行期の後半、もしくは近世初期(近世初頭)史、徳川幕初といわれる時代である。

そもそも藤堂高虎という人物、どういう点が注目であるか。それは、この近世初期の徳川幕府のキーパーソンになるところである。では、なぜキーパーソンになるのか。教科書の幕藩体制の説明では、徳川幕府と大名の関係は「親藩」「譜代」「外様」の3種類に分けられ、基本的には徳川直臣筋たる「譜代」が幕政に関わることとなる。また、「外様」は関ヶ原の戦い以降徳川家に付き従った大名のことを指すが、これは羽柴秀吉に付き従っていた大名のなかで関ヶ原の戦いにて東軍(徳川)に味方した大名のことも指す。

藤堂高虎は、羽柴秀長の直臣であった後に、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した大名であるから「外様」大名に属する。

しかし、その藤堂高虎は、外様大名であるものの、家康の側近のように仕えて、そのほか家康の側近たちと念入りに相談して、その幕政を支えていく様子がみえる。本書でも、その点は非常に読みどころであろう。本書では軽くしか紹介されていないものの、藤堂高虎が解決したという「嵯峨天龍寺塔頭陽春院一件」という事件は非常に興味深い(この事件の詳細は旧稿で言及しているので、そちらを参照されたい)。しかし、このような事件が軽くしか紹介されていないというのは、逆にいうと、高虎が関わった事件はほかにもさまざまあり、おそらく1つ1つがとてつもなく詳細に描けばそれそのものがおもしろい一件となることであり、それを藤堂高虎の人物評伝1冊にまとめるのは無理がある。それほどまでに、藤堂高虎という人物が徳川幕府に与えた影響というのは大きい。

そしてその高虎の事績を追えば追うほど、非常に気になる点は、なぜ「外様」である藤堂高虎は幕政に関われたか。これはむしろ、教科書の定義である「譜代」とか「外様」という括りそのものを、この慶長年間~寛永年間に分類されるであろう、近世初期に当てはめることが難しいからである。その大名の分類そのものが、この時期にはなかった可能性がある。また、昨今の羽柴秀長の研究が進んだ影響で、豊臣政権期の政治史理解が深く進んだこともある。羽柴秀長の直臣として活躍した高虎は、秀長の持っている政治力、そして人脈、その仕事のやり方その他諸々を引き継いでいる。それが、家康にとって重用された理由であろうと藤田氏は説明している。まさにその通りであろう。

また本書の終盤にて、藤田氏は、近世の大名と戦国大名の決定的な違いは、「教養」であろうとされている。これについては、もちろん戦国大名のなかでも教養のある人物はいると筆者はみているが(北条氏康など)、しかし全体的に見ればその指摘は正しいと思う。そうした教養のなかで、藤田氏が述べる「預治思想」というものが生まれてきたのであろう。そして、それは京都の文化人たちとの交流が非常に大事になっていく。戦国大名との違いは、そういう公家・禁裏・文化人たちとの交流によって生まれる政治的教養が近世を作りえたとも。この教養というものは、もしかすると平安時代における政治教養を考えないといけないかもしれないが、それについてはここでは避ける。

また、その教養を最初に得た集団であるのが、羽柴秀長の作り出した人脈であろう。本書でも、その人脈を束ねたのが、秀長亡き後の藤堂高虎であろうとする。先述の通り、だから家康は高虎を、その秀長人脈ラインを束ねた高虎を重用した。また高虎と密接につながる、小堀遠州(政一)の存在も重要である。これもまた家康の側近となる人物であるが茶人・作事奉行でもある。

そのほかにも、「寛永の三筆」といわれた人物たちとの交流もみえる。なお、筆者は以前、中世貨幣経済史研究者の川戸貴史氏の新館を紹介したが、寛永通宝という銭(岡山で作られた寛永通宝を木下長嘯子が揮毫したという説や、そもそも鋳造における技術やパトロンの存在)について、この「寛永文化の人脈」が影響しているのではないかと想像している。本書でも、高虎と文化人たちとの関係性を「遠州茶湯検討グループ」ともいえる芸術人脈と評価している。また、本書内でたびたび出てくる細川忠興(三斎)・細川忠利も、外様大名でありながら幕政に関与している点が見られる。これらの人物も文化人として有名である(千利休らとの関係性など)。

近世初期という時代は、こういった羽柴秀長の遺産である京都の文化人とそれとの交流を行った大名たちによる政治が深く影響しており、それが徐々に徳川譜代に受け継がれているのではないかとみえる。つまるところ、近世初期の政治体制は、羽柴秀長人脈グループ(京都文化人脈)+徳川譜代、そういった体制なのではないかとみえてしまうが、これについては今後の研究がまたれよう。そのように想像しえてしまうほど、藤堂高虎という人物を追えば追うほど、この近世初期という時代への興味が深まるのである。本記事をお読みになった方々、近世初期はいいぞ、藤堂高虎はいいぞ、そういった言葉を残して本記事を締めたい。