戎光祥出版/2025年10月刊/A5判/168ページ/2200円/ISBN:978-4-86403-598-9

軍師高虎?

秀吉の「軍師」(主君のもとにあって政治・軍事・外交をつかさどる人)と聞いて誰を思い浮かべるであろうか。多くの人は、2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』のタイトルからも、その主人公であった黒田孝高(官兵衛尉)と、孝高と対をなす存在として登場する竹中重治(半兵衛尉)を思い浮かべるのではないか。

ところが、本書の著者・諏訪勝則氏はかつて、『黒田官兵衛』(諏訪2013)にて孝高は司令官であり、軍師ではなかったと評価している。一方、諏訪氏が秀吉の「軍師」に位置づけているのは、本書の題材となっている藤堂高虎である。本書によれば、高虎は「朝廷や公家衆との折衝」「各大名の指南」「外様大名の統制役」「軍師として指揮統制」「御成行事における立ち合い者」などを担った、まさに「軍師」としての役割を果たしていたという。

本書の目次は以下のとおりである。

Ⅰ 高虎の生誕と若き日の活動
Ⅱ 信長のもとで武将として活動する
Ⅲ 秀吉・秀長兄弟の腹心の武将として
Ⅳ 家康・秀忠父子の参謀としての活動

渡り奉公人

藤堂高虎は主君を次々と変え、「7度主君を変えねば武士とはいえぬ」という名言を残した逸話で有名である。それでは、実際の高虎は、何人の主君に仕えたのであろうか。本書をみると、浅井長政(~元亀3〈1572〉)・阿閉貞征(元亀3~天正元〈1573〉)・磯野員昌(天正元~天正3)・織田信澄(天正3~天正4)・羽柴秀長(天正4~天正19)・羽柴秀保(天正19~文禄4〈1595〉)・羽柴秀吉(文禄4~慶長3〈1598〉)・羽柴秀頼(慶長3~慶長5)・徳川家康(慶長5~元和元〈1616〉)・徳川秀忠(元和元~寛永7〈1630〉)の10人である。

ただし、このうち信澄は員昌の養子、秀保は秀長の養子、秀頼は秀吉の嫡男、秀忠は家康の嫡男であり、前代からの家督相続によって主君が変わった事例であり、高虎が主体的に変更したものではない。大河ドラマ「麒麟がくる」では、「稲葉一鉄が一色義龍から龍興(義龍の子)に主君を乗り換えた」というような台詞があったが、そういう見方は適切ではないだろう。

また、秀保→秀吉の変更も、秀保死去によって大和羽柴氏が断絶したことで、大和羽柴氏家臣がそのまま羽柴宗家である大坂羽柴氏の家臣に組み込まれたものである。さらに、秀頼→家康の変更も関ヶ原の戦いの戦後処理のなかで、天下人そのものが秀頼から家康に移ったことにともなうものである。したがって、これも高虎の意思によるものではない。

こうみると、高虎がみずからの意思で主君を変えたのは3回だけ、しかもそれはほぼ前半生に限った話といえる。

なお、主君を次々と変える武士は「渡り奉公人」と呼ばれている。なかには、藤堂高虎をその典型例とみて、織豊期・江戸時代初期(≒近世初期)の特徴と捉える見方もある(藤田2025)。ところが、少なくとも典型とされる藤堂高虎ですら、みずからの意思では3回しか主君を変えていないことは、注目するべきであろう。

また、藤田達生氏は(初期を含めた)近世の特徴として預治思想をあげ、その萌芽を天正8年の石山戦争終結後に信長が行った知行替えに求めている(藤田2025)。すなわち、藤田氏の理解では天正8年を画期として中世から近世に変質するということになる。

しかし、「渡り奉公人」の典型例たる藤堂高虎が主体的に主君を変えたのは、天正4年が最後である。したがって、藤田氏の時代区分に従うならば、むしろ「渡り奉公人」という特徴は中世末期の特徴と捉えるべきものになる。このように、「渡り奉公人」を近世初期の特徴と捉え、かつ藤堂高虎をその典型例とみなす理解には到底従えない。

秀次事件にみる近世初期の家臣団論

また、本書を一読して注目されるのは、秀次事件に際して藤堂高虎が秀次の護衛を担当しているという点である。

本書ではこのことを、高虎が秀吉・秀次双方から信頼されていたことによる対応とみている。実際、これ以前にも高虎は秀吉・秀次から信頼されていることが史料から判明している。

しかし、そもそも高虎は大和羽柴氏の家臣である。そのため、秀長・秀保の取次として秀吉(大坂羽柴氏)・秀次(尾張羽柴氏)から信頼されることはあっても、秀吉から直接指示を受ける立場ではないし、失脚した秀次の護衛として秀次が心理的に安心できる人ではない、という疑問が湧くかもしれない。

ただし、必ずしもそうとは言い切れない。というのは、たとえば喜連川氏の家臣は、もともと古河足利氏家臣であった古河衆と、小弓足利氏家臣であった上総衆に分類される。このうち、古河衆について興味深いのは、古河足利氏が断絶する寛永7年以前から喜連川氏の家臣として史料に登場することである(岸野2026)。

このことは、同族の別家では、家臣は複数の家の当主を主君と仰いでいた可能性を示すものである。実際、僧侶なので正確には家臣とはいえないものの、三伯昌伊は古河足利氏の家臣としても、喜連川氏の家臣としても登場するのである。

したがって、高虎の場合も単に大和羽柴氏の家臣という立場だけではなく、大坂羽柴氏・尾張羽柴氏の家臣という立場も兼ねていた可能性もある。とくに、羽柴秀保は羽柴秀次の実の弟であり、秀長の養子となって大和羽柴氏の家督を継承していた。また、藤堂嘉清(高虎の従弟)が尾張羽柴氏の家臣となっていることも確認されている。つまり、尾張羽柴氏と大和羽柴氏は、羽柴一門のなかでもとくに親密であり、家臣も同族内で分かれて仕えている事例が多く、一体的に活動していた可能性が考えられるのである。

東京に残る藤堂氏の遺構

ところで、東京には藤堂高虎の墓が残っている。どこにあるかというと、なんと恩賜上野動物園(東京都台東区)の敷地内にあるのである。どうしてこのようなところにあるのかというと、この場所は江戸時代初期に藤堂氏の下屋敷があった場所だからである。

寛永2年に江戸幕府が寛永寺を建立するにあたって、高虎は屋敷地を献上して寒松院(寛永寺の子院)を建立し、高虎自身もそこに葬られることになった。その後、慶応4年(1868)の上野戦争後に寺領は没収され、明治6年(1873)に上野恩賜公園になる。さらに、明治15年に旧寒松院周辺が上野動物園として開園したことで、藤堂氏の墓が動物園内に取り残されるかたちとなったのである。

それでは寛永寺建立後、藤堂氏の下屋敷はどこに移ったのであろうか。それは、染井村(東京都豊島区)の周辺である。現在の山手線沿いから染井霊園にかけての地域全体を屋敷としていた。この土地も、明治時代になって払い下げられたが、唯一、門だけ近くの公園に移築されて残っている。

藤堂家下屋敷の門
藤堂家下屋敷の門

【参考文献】
岸野達也「足利国朝・喜連川頼氏の家臣団」(『東洋大学大学院紀要』第62集、2026年)
諏訪勝則『黒田官兵衛 「天下を狙った軍師」の実像』(中央公論新社、2013年)
藤田達生『国替の誕生 天下人たちの藩〈クニ〉づくり』(塙書房、2025年)