2025年3月、喜連川家文書が栃木県指定有形文化財に指定された。さくら市ミュージアムでは、文化財への指定とさくら市誕生20周年を記念して、10月18日から12月21日にかけて企画展が開催された。
本史料群は一般的に「喜連川文書」と表記されることが多い。正確には、近世喜連川氏が持っていた一連の史料が喜連川文書で、これは明治になってから散逸している。このうち、さくら市蔵のものが「喜連川家文書」(太字筆者註)である。また、喜連川家文書以外には、東京大学史料編纂所などにも喜連川文書が残っている。
なお、喜連川家文書の写真と翻刻については、すべてさくら市史編さん委員会編『喜連川町史』第5巻(さくら市、2007年)に収録されているので、詳細はそちらを参考にしていただきたい。
展示の構成は以下のとおりである。
はじめに 『喜連川家文書』とは
第一章 鎌倉公方から享徳の乱を経て古河公方へ
第二章 古河公方と小弓公方(分裂する公方家)
第三章 喜連川足利氏の誕生と天下人
第四章 古河公方から喜連川家へ伝えられた文化
第五章 江戸時代の喜連川家の文書
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はじめにでは、そのタイトルのとおり喜連川家文書の史料的性格が概説されている。喜連川家文書は、天明元年(1781)に喜連川恵氏(喜連川氏8代当主)が整理・保存した史料群である。喜連川家文書を伝来してきた喜連川氏は関東足利氏の末裔であり、室町時代から江戸時代にかけての史料がまとまっている。
関東足利氏は室町時代には鎌倉公方(鎌倉府の首長)として存在しており、戦国時代になると領域権力化して古河公方となったものの(市村1982)、引き続き政治秩序の頂点に君臨していた。江戸時代には下野喜連川5000石の領主に転落するものの、儀礼的には特別待遇を受けるなど、通常の大名・旗本とは性格を異にする家として存続したのである。
つまり、関東足利氏の研究は権門としての性格と領域権力としての性格、また武家の頂点にいた時期と一領主にすぎなかった時期をすべて検討できるという利点がある。そして、関東足利氏に関する基礎史料が喜連川家文書としてまとまっていることは、その伝来などが比較的明瞭であることを意味しており、関東足利氏を題材とした実証研究がとてもやりやすいということになるのである。
第一章では、おもに室町時代の関東足利氏についての史料が展示されていた。ここでは、鎌倉公方だけではなく、関東管領(上杉憲忠など)や幕府の管領(畠山持国・細川勝元など)などが発給した文書も展示されていた。関東管領の仕事は鎌倉公方を補佐することだが、そのなかでも大きな職務だったのが、鎌倉公方と室町幕府(将軍・管領)との間の情報伝達である。とくに、細川勝元は足利成氏(鎌倉公方)との交渉は関東管領を通じた伝達のみしか受け取らない(つまり「鎌倉公方―関東管領―管領―将軍」というルート)方針をとっており、その役割の重要さがうかがえる。
ところが、享徳4年(1455)に享徳の乱が勃発し、足利成氏と関東管領上杉氏が対立すると、室町幕府は関東管領を支持するようになる。その結果、鎌倉公方から幕府への情報伝達ができなくなるのである。こうした状況は、成氏が幕府との和睦が成立するまでに時間がかかることになった一因とも捉えられるであろう。
また、この章のなかでとくに注目を引く史料は『鎌倉年中行事』(『殿中以下年中行事』)である。この史料はその名のとおり、鎌倉府で行われていた年中行事についての方法がまとめられている。
第二章では、戦国期の関東足利氏についての史料が展示されていた。戦国期の関東足利氏は、永正年間に嫡流の古河足利氏と庶流の小弓足利氏に分裂して敵対し、さらに古河足利氏のなかでも代々親子で対立を続けるようになる。
この時期に注目されるのは、古河公方から室町幕府へ交渉する際に、将軍に対して取り次いでいるのが近衛稙家であるということである。室町時代には、将軍に対しての取次は管領が担っていたわけだから、この時期にはその役割を近衛家が担っていたということになる。こうした、将軍と近衛家の密接な関係について、幕府研究においては「足利―近衛体制」と呼ぶ研究者も存在する(黒嶋2004など)。筆者は幕府研究を詳細に追っていないのでその是非を判断することは難しい。ただし、少なくとも古河公方の立場から見たときには、比較的妥当な理解といえるだろう。
第三章では、豊臣期の関東足利氏についての史料が展示されている。この時期の関東足利氏については、ゆまにすとでもすでにまとめているため(拙稿2024)、適宜参照されたい。
この章に展示されていたもののなかで、これまでとくに言及していない資料は、秀吉から拝領した笄と栗形であろう。文献史学ではつい見落としてしまう、実物の資料である。
このような側面は、第四章の文化史に関する展示でもみられるものである。有名な一色直朝筆「白鷹図」をはじめとして、『源氏物語』の各巻名を読み込んだ長歌などがあった。それぞれの文化的な価値は筆者にはわからない。しかし、戦国時代とはいえ、少なくとも関東の身分秩序の頂点にいた古河公方は、文化的素養も失っていなかったことは確実であろう。
第五章では、江戸時代の関東足利氏(喜連川氏)についての史料が展示されている。これまで、関東足利氏は身分・政治秩序の頂点から転落した段階でその歴史的役割を終えたという評価が一般的であった(佐藤1981など)。そのため、近世喜連川氏の研究はあまり十分に検討されてこなかったのである。
しかし、史料群としての喜連川家文書に注目するならば、むしろ喜連川氏こそが重要な存在といえる。なぜなら、喜連川家文書のなかで江戸時代のものが占める割合が意外と多いからである。実際、本展示においても、第五章に割かれている割合はほかの章よりも多かった。
現在、筆者は喜連川家文書に収録されている江戸時代の文書を検出しているが、思った以上の数にのぼっており、数百点を下回らない数になることが想定されている。これらの成果は徐々に形にしていきたいが、老中とのやりとりなど、幕政を考えるうえでも重要な史料が含まれているのは間違いないのである。
ただし、展示においては若干の不満もあった。たとえば、文久3年(1863)の喜連川城下絵図のキャプションでは、慶長6年(1601)に喜連川頼氏が町割りを行ったことが記述されている。この内容は天明元年成立の「町人由来書上帳」(『喜連川町史』第3巻〈さくら市、2007年〉171号)に記されているものであり、まずもって同時代史料から確認できるものではないという点に注意が必要である。しかし、とくに積極的に否定できる根拠もないため、現状では慶長6年に頼氏が町割りを行ったこと自体は事実とみてよいだろう。
けれども、このことを文久3年の絵図で解説すると、まるでその絵図のとおりに頼氏が町割りを行った、つまり慶長6年から文久3年まで一貫して同じ町割りであったと誤解する鑑賞者も出てくるのではないか。この点、本展では明言されていないのでそこまで追及するべきではないかもしれない。しかし、さくら市が刊行しているマンガ(吉原2024)では、頼氏が町割りをする描写において、喜連川城下絵図を元にしたと思われる喜連川宿のコマが登場している。
もちろん、このマンガは学術書ではないから、そこまで学問的な正確性を追求する必要がないのは事実である。けれども、現状の喜連川氏研究の課題として、近世後期のあり方を近世初期にそのまま適用して解釈してしまっていることはすでに複数の研究者があげている(泉2010・戸谷2024など)。
近世初期の問題はけっして喜連川氏に限った話ではないが、こうした研究課題があるにもかかわらず、その課題をむしろ大きくするような展示は、できるだけ避けていくべきことではないだろうか。いずれにしても、喜連川氏の実証研究は自治体史の記述以外にはないのであり、今後注力していくべき内容の1つといえるであろう。
【参考文献】
泉正人「近世初期の喜連川家と徳川氏―関ヶ原の戦いを中心に―」(『早実研究紀要』44号、2010年)
市村高男「古河公方の御料所に関する一考察」(『古河市史研究』7、1982年)
黒嶋敏「山伏と将軍と戦国大名」(同著『中世の権力と列島』高志書院、2012年、初出2004年)
佐藤博信「古河氏姫に関する考察」(同著『古河公方足利氏の研究』校倉書房、1989年、初出1981年)
戸谷穂高「喜連川足利頼氏と豊臣政権」(『里見氏研究』第3号、2024 年)
吉原澪『マンガふるさとの偉人 足利島子』(さくら市教育委員会、2024年)
拙稿「【研究史を紐解く】足利国朝・喜連川頼氏論」(ゆまにすと、2024年、https://humaniste.jp/blog/fd4yuutkl093)



